函館市

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函館フェリーターミナル

撮影:2023年11月04日 撮影:2023年11月04日 撮影:2023年11月04日 撮影:2023年11月04日
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旧ロシア領事館

安政元年(1854年)12月の日露通好条約に基づき、安政5年(1858年)9月初代領事ゴシケーヴィチ一行が着任、実行寺に領事館を置いた。万延元年(1860年)、元町の現ハリストス正教会地内に領事館を建てたが、隣の英国領事館の火災で被災した。
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山上大神宮

山上大神宮は、社伝によると今から600年ほど前の応安年間(室町初期)、藤坊という修験者がこの地に渡来し、亀田赤井川村神明山に草庵を結び、伊勢神宮の御霊をいただいたのが始まりと伝えられる。
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操車塔

このキノコのような建物は操車塔といい、昭和14年(1939)に交差点での電車信号現示とポイントの切り替えを手動による遠隔操作をするために建てられたもので、現存する路面電車の操車塔では国内最古といわれております。この操車塔は、高さ5.4m、制御室直径1.9mあります。 昭和44年(1969)当時には市内に6基ありましたが、施設の自動化などにより順次姿を消し、この操車塔だけが、平成7年(1995)6月まで電車信号機の制御装置が置かれ、使用されておりました。 当時交差点向側に建てられておりましたが、道路改良にともない平成7年9月、現在地に移設し、形態保存しております。
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湯倉神社

湯の川温泉の起源は古く、「元和3年(1617年)より湯座あり、薬師仏を祀っていた……」という言い伝えが残る。承応2年(1653年)松前藩主・氏広の子、千勝丸(のちの9代藩主・高広)が不治の病にかかり、母の清涼院がこの温泉で湯治させ、全快したという。喜んだ清涼院は、翌年、薬師仏を祀る社殿を改造したとされる。
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旧イギリス領事館(開港記念館)

箱館にイギリス領事館が置かれたのは、安政6年(1859年)日本最初の貿易港として開港した時のことで、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館として、初代領事ホジソンが称名寺に開設した。文久3年(1863年)に現在の元町のハリストス正教会の西隣に領事館を新築したが、数度の火災にあった。 この建物は、イギリス政府工務省上海工事局の設計により、大正2年(1913年)に竣工したものであり、昭和9年(1934年)の閉鎖まで領事館として使用されていた。
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函館八幡宮

「社伝」によれば、文安2年(1445年)、河野政通公が蝦夷地に渡来し、現在の元町公園辺りに館を築いた時、その東南のすみに八幡神を鎮祭したのが始まりといわれる。
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碧血碑

箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助父子をはじめ、北関東から東北各地、箱館での旧幕府脱走軍戦死者の霊を祀っているのが、この碧血碑である。碑石は、7回忌にあたる明治8年(1875年)、大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て、東京から船で運ばれたもので、碑の題字は、戦争当時陸軍奉行であった大鳥圭介の書といわれている。 碑の台座裏に、碑建立の由来を示す16文字の漢字が刻まれているが、その表現からは、旧幕府脱走軍の霊を公 然と祀るには支障があったことが推測される。 なお、 碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という、中国の故事によるものである。
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柳川熊吉翁の碑

柳川熊吉は、安政3年(1856年)に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の手配に貢献した。明治2年(1869年)、箱館戦争が終結すると、敗れた旧幕府脱走軍の遺体は、「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままであった。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、実行寺の僧と一緒に遺体を集め、同寺に葬ったが、その意気に感じた新政府軍の田島圭蔵の計らいで、熊吉は断罪を免れた。明治4年(1871年)、熊吉は函館山山腹に土地を購入して遺体を改葬し、同8年(1875年)、 旧幕府脱走軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てた。大正2年(1913年)、熊吉88歳の米寿に際し、有志らはその義挙を伝えるため、ここに寿碑を建てた。
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石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912年)4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。
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