遺愛幼稚園

古い教会がたくさんある函館元町地区の幼稚園。現在の建物も大正時代のものであり、相当歴史ある幼稚園。

 

遺愛幼稚園

2008年9月14日撮影。

 

学校法人遺愛学院による説明標識の内容は次のとおり。

 

 

遺愛幼稚園
明治28年(1895)遺愛女学校併置の遺愛幼稚園とし創立されたが、明治40年(1907)8月の大火で遺愛女学校ともども類焼。現幼稚園園舎は米国篤志家の寄付により大正2年(1913)に建造された。この地は学校法人遺愛学院の発祥の地である。
米国人宣教師M.C.ハリスは米国メソジスト監督教会より派遣され明治7年(1874)1月26日函館に到着後、付近の子女を集め直ちに日日学校(Day School)を開いた。これが遺愛学院の濫觴である。ハリスは当時の札幌農学校で、クラーク博士の依頼を受け、佐藤昌介・新渡戸稲造・内村鑑三らに洗礼を授けている。
幾何学的なブラケットを付加し、櫛形ペディメントを見せるポーチ部は、正面をガラス張りとし、両側二方を吹き放している。外壁をピンク色、隅柱・開口部などを白色に仕上げた控えめなスティックスタイルの建物である。
 
 
lai Kindergarten
lai Kindergarten was founded in 1895. This building was re-built in 1913. This site is the original site of lai Girl’s High School, established in 1882. The origins of lai can be traced back to 1874. M.C Harris bishop of the Methodist Episcopal Church of the United States, started a Day School in this site. The name “lai” means Remembrance of Love.
学校法人遺愛学院

 


ハリストス正教会

昔は鐘の音から「ガンガン寺」と呼ばれ親しまれていたとのこと。

 

ハリストス正教会

2008年9月14日撮影。

 

ハリストス正教会

2008年9月14日撮影。

 

ハリストス正教会

2008年9月14日撮影。珍しいバックショット。

 

函館市設置の観光標識の内容は次のとおり。

 

 

ハリストス正教会

安政6年(1859年)敷地内に建てられた初代ロシア領事館の附属聖堂として建立されたのが始まりで、正しくは「函館復活聖堂」という。 文久元年(1861年)青年司祭ニコライが、ロシアから来函し切支丹解禁を待って日本で最初にギリシャ正教を布教した。<明治5年(1872年)東京転任> 明治40年(1907年)大火で類焼したが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建された。 この聖堂内部に、円天井を装架しているのがこの様式の特徴である。屋根に装置された数多くの十字架とその装飾部を飾る冠状構造が独特の形状をつくっており、緑色の銅板屋根は昭和43年に改装され、緑青を科学的に熟成したものである。 再建当時の大鏡(重さ約2トン)は、大正12年(1923年)関東大震災で大破した東京ニコライ堂復興の際に移され、かわりに大小6個1組の鐘と交換された。リズムと共にメロディを送る音色から「ガンガン寺」として市民に親しまれたが、この鐘も戦時中供出した。 現在の鐘は、三重県桑名市在住の美術鋳造家から昭和58年6月に献納されたものである。 昭和58年6月、国の重要文化財に指定された。函館市

THE RUSSIAN ORTHODOX CHURCH

This dates from 1859 when it was built as a temple attached to the first Russian Consulate. It was formerly called Hakodate Sanctuary of the Resurrection. In 1869 the young prist Nicholei came to Hakodate from Russia to propagate the Russian Orthodox Church for the first time in Japan after the embargo on early Christianity in Japan was removed. (He was transeferred to Tokyo in 1872. ) In 1907 it suffered a disastrous fire and was rebuilt in 1916 in the Russian Byzantine style of architecture. The domed ceiling inside this temple was of characteristic design. The crown like structure with many crosses on the roots and decorations is unique the green copper roof was repaired in 1968 and the blue-green hue was created chemically. The 2 ton bell was moved to Nicholei Hall in Tokyo which had been damaged by the Kanto Earthquake in 1923. It was exchanged for 6 bells、 large and small. People loved this church and called it Gangan dera meaning the me lody of ringing bells. These bells were handed over to the gorvernment us e during the war. The presant bell was given by a master caster from Kuwana city in Mie prefecture in June 1983. This chuch was designated as an important cultural asset in June 1983. The City of Hakodate


チャチャ登り

「チャチャ」とは、アイヌ語で「おじいさん」のことらしい。

 

チャチャ登り

2008年9月14日撮影。

 

函館市設置の標識に記載の内容は以下のとおり。

 

 

チャチャ登り(のぼり)
函館では珍しいアイヌ語の坂名で、幕末頃ついた名前らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。
 
CHACHANOBORI SLOPE
The name of this slope is one of few in Hakodate which is derived from the Ainu language. It was probably named in the last days of the Tokugawa Shogunate, ‘Chacha’ in Ainu means an aged man. Since this slope is very steep, those who ascend the slope looked like an old man with a stoop. This gives us an image of an aged person. So the slope was named duly. CITY OF HAKODATE
 
 

亀井勝一郎生誕の地

文芸評論家として活躍した亀井勝一郎。彼の生誕の地を示す碑。カトリック元町教会の向かいにある。

 

亀井勝一郎生誕の地

2008年9月14日撮影。

 

函館市設置の観光標識の内容は次のとおり。

 

 

亀井勝一郎生誕の地
亀井勝一郎は、明治40年(1907年)2月6日、ここ元町で喜一郎の長男として生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部に学び、のちに文芸評論家、思想家として活躍した。
昭和12年「人間教育」、同18年「大和古寺風物詩」等不朽の名著を残し、昭和40年日本芸術院会員に推挙された。
晩年の大作「日本精神史研究」は亀井文学の集大成として高く評価されたが、昭和41年11月14日病により永眠し、未完に終わったのが惜しまれる。
勝一郎は終生函館弁を使い、函館のサケのすしやイカの刺身を好んだという。
なお、青柳町函館公園付近には、勝一郎真筆による寸言「人生邂逅し開眼し瞑目す」と刻まれた文学碑がある。 函館市
 
BIRTHPLACE OF KATSUICHIRO KAMEI
Katsuichiro Kamei was born in Motomachi on February 6th, 1907. He graduated from Tokyo Imperial University. Later he played an active role as a literary critic and thinker. Among the great works he left were Human education in 1937 and Essays on things in seasons at old temples in Yamato in 1943. In 1965 he was elected as a member of the Japan Art Academy. His greatest work Historical researches on the Japanese spirits is regarded as the culmination. Unfortunately on November 14, 1966 he died of an illness before completion of it. His aphorism Life has chances to encounter, and open ones eyes, then close them again is inscribed on the literary monument near Hakodate park in Aoyagi-cho. CITY OF HAKODATE

 

 


カトリック元町教会

現在の聖堂は大正13年のものらしい。

 

カトリック元町教会

2008年9月14日撮影。

 

カトリック元町教会

2008年9月14日撮影。

 

 

函館市設置の観光標識の内容は次のとおり。

 

 

カトリック元町教会
元町教会は、安政6年(1859年)フランスの宣教師メルメ・ドゥ・カション(パリー外国宣教会司祭)が仮聖堂を建てたのに始まるもので、徳川幕府によるキリシタン追放令以降の日本におけるキリスト教宣教再開の先駆として横浜の山手、長崎の大浦と共に最も古い歴史をもつ教会である。
明治元年(1868年)同宣教会司祭ムニクー、アンブルステル両氏が現地に仮聖堂を建て、その後、明治10年(1877年)同宣教会司祭マラン氏により最初の聖堂が建立された。
以降、3回の大火で類焼したのち、大正13年(1924年)現在の大聖堂が完成した。この大聖堂は、ゴシックスタイルの耐火建築であるが、中央祭壇、左右両壁一四畳の十字架道行の聖像は、イタリーのチロル地方の木彫で、時のローマ教皇ベネディクト十五世から贈られた由緒あるものである。 函館市
ROMAN CATHOLIC CHURCH
In 1859 the first temporary Catholic Chapel was founded by French Missionary Mermet De Cachon. Priest of Paris foreign missions society. It was the begining of such work in Japan after the deportation order of Christians by the Tokugawa Government. This church is as historical as The Yamate Church and The Oura Church in Ngasaki. In 1868 Priest Mounicou and Priest Ambruster built at emporary church at the present site, and in 1877 the first wooden church was built by Priest Marin. However, was destroyed by fires three times. The Present church was built in 1924. This church, in a gothic architectural style, is fire proof. But the Alter and the fourteen sculpture Stations of the Cross showing scenes on each, along the walls on both sides, are tilolean wood carvings. They are of historical value because they were presented by Pope Benedict XV .

大三坂

坂を登ればカトリック元町教会。

 

大三坂

2008年9月14日撮影。

 

函館市設置の標識に記載の内容は以下のとおり。

 

 

大三坂(だいさんざか)
昔、坂の入口に大三という家印の郷宿(ごうやど)があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の家があったので、「木下の坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。
DAISAN ZAKA SLOPE
Long ago, at the base of this slope, there was a goyado (inn) called ‘Daisan’, which was the name of a family crest. The inn served local villagers who came to the city on official business. Earlier, a house named KINOSHITA was there, and this slope had been called ‘Kinoshita’s Slope. ‘ In 1987 this slope was designated as one of the ‘Hundred Representative Roads of Japan. CITY OF HAKODATE

南部坂

まちセンのお隣の坂が南部坂。昔、坂の上に南部藩の陣屋があったことに由来するらしい。

 

南部坂

2008年9月14日撮影。

 

函館市設置の標識に記載の内容は以下のとおり。

 

 

南部坂(なんぶざか)
幕府は、外国船の蝦夷地(北海道)近海への出没や、ロシアの南下など多難になってきたため、寛政11年(1799年)蝦夷地を直轄し、防衛のため奥羽諸藩に警備を命じた。日高海岸以東の警備にあたった南部藩の元陣屋がこの坂上にあったので「南部坂」と呼ばれた。
NAMBU ZAKA SLOPE
As foreign affairs became difficult, for example, unknown vessels often came and went off the coast of Hokkaido, and Russia tried to expand its sphere of influence by heading south, the Tokugawa Shogunate decided to take direct control of Hokkaido in 1799 and ordered several clans in the northern districts of Honshu (mainland Japan) to defend the area. One such clan, the Nambu clan, was made responsible to protect the eastern areas beyond the Hidaka coast I ine. They set up their headquarters at the top of this slope. This is why it is called ‘Nambuzaka slope.  CITY OF HAKODATE


東京会議北海道〜講師オルタナの森摂さん〜

更新が遅れましたが、今月の東京会議北海道(平成22年9月27日開催)は、講師に環境とCSRと「志」のビジネス雑誌オルタナ編集長の森摂(もりせつ)さんをお迎えして開催されました。

 

「オルタナ」とは「オルタナティブ」、「今までとは違う、第3の」といった意味です。
これからの時代のビジネスにおける、「地球環境への配慮」、「地域共生」、「社員に優しい〜」等々新しい
「モノサシ」を探るというテーマの雑誌です。とくにCSRの専門誌としてはオルタナをおいて他にないとのこと。

 

森さんから紹介された、「経営と環境は同軸」、「変化に対応できる者のみが生き残る」、等々著名人の名言。今後のビジネスの向かうべき方向性を明示しています。

 

「消費者が変われば企業が変わる」。
消費者の側も、単に安いものを追求するのではなく、環境配慮型企業の商品やCSRに取り組む企業等の商品を選択肢の優先事項にする、そうした意識の変化は企業の変化に直結するものと思います。
Patagoniaの事例など、素晴らしい取り組みをしている企業がたくさんあるようですが、私たちがそれを知るすべは限定的です。オルタナは、国内外のそうした情報を発信しています。

 

輸入の魚、肉、農産物もいいですが、なるべく地元のものを優先する、次には国内を優先する、といったことを一人一人が実践するだけで日本もかなり変わるのではないか、と考えたりもします。
森さんのお話をうかがって、その優先順位付けに、環境、CSR等を組み入れよう、と考えることができました。株式を買わなくてもできる企業や地域の応援の方法なのではないでしょうか。

 

・オルタナ

 

・松原美里さんのブログでも詳しく報告されています。

 

サッポロ クリーミーホワイト

会議終了後はいつもの懇親会。不真面目な私はこちらの方が楽しみ・・・。

今回はサッポロビール様より、新製品クリーミーホワイトが提供された。泡まで美味い!


「地域アイデンティティの再構築」

25日(土曜)13時から、日本学術会議にて開催されたシンポジウム「地域アイデンティティの再構築—地域再生と地域主権への地理学からの接近—」に出席。

 

基調講演は名古屋産業大学名誉学長の伊藤達雄先生。「地理学」ももっと政治に接近(提言とか)しても良いのではないか、という視点の試論を紹介。

 

関西大学の野間晴雄先生は、「地産地消が地域再生の鍵となる要件—歴史的原像を踏まえて—」と題した講演。1980年代に消費者の食への安全志向等が高まったことにより「地産地消」という用語が成立し、近年では「食育」という概念に発展しているとの説明。その他、地産地消の事例紹介があった。

 

成蹊大学の小田宏信先生は「中小製造業の世界における地域アイデンティティ」と題した講演。ドイツの製造業の地域形成について紹介された。

 

別な用事があったため残念ながら小田先生の講演のあと退席させていただいたが、学術会議のシンポジウムというだけあって、全体的に、学問的な研究者の視点からの講演が中心であったように思われる。相当な基礎知識を持っていないと、まったく付いていけない印象。(私も正直かなり厳しかったです・・・。)

ただ、野間先生の講演は分かりやすく、地産地消の事例として紹介いただいた各地の道の駅等の取組み事例は大変参考になった。道の駅に高齢者が出荷し、良い小遣い稼ぎになっている事例などは、個人的に非常に興味のある取組み。

 

日本学術会議

 

日本学術会議講堂


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