墨堤通り沿い早朝散歩

墨堤通からスカイツリー

2010年8月26日撮影。早朝なのでさすがに車の通りは少ない。スカイツリーへと続いているかのように見える墨堤通り。

 

隅田川神社参道

2010年8月26日撮影。墨堤通りと東白鬚公園との間には高層マンション(都営住宅)が連続しているが、その間を縫うように隅田川神社の鳥居と参道が続いている。奥に進むと隅田川神社。

 

榎本武揚の像

2010年8月26日撮影。榎本武揚と言えば、道南、函館でもよく耳にする歴史上の人物のひとり。晩年に向島で過ごしたというのは知らなかった。

 

以下は墨田区教育委員会設置の説明版の内容。

 

榎本武揚の像

所在 墨田区堤通2丁目26番3号 梅若公園内

武揚は、天保7年(1836)下谷(現台東区)の通称三味線堀に生まれました。天性聡明で学問を好み、昌平黌で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人教官より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった化学までも学びました。さらに文久2年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕えられます。しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治5年許されました。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごと交渉に成功します。その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられました。晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同41年に73歳で死去しました。隅田公園内の「墨堤植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内の所々に残されています。

平成18年3月   墨田区教育委員会


元町配水場(2008年)

国内では横浜に次ぐ古い近代水道。さらに、日本人の設計・工事によるものとしては国内最古の施設である。

 

元町配水場

2008年7月21日撮影。

 

元町配水場に関する函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。

函館の上水道
函館の水道は、明治22年(1889年)に完成した日本で二番目の近代水道である。日本最初の水道は横浜で、これは外国人の設計監督により明治20年(1887年)に完成した。日本人の工事監督によるものとしては、函館の水道が日本で最初のものであり全国的に有名である。函館は昔から水利の便が悪く、また津軽海峡に突き出た地形のため年間を通して風が強く、火災が発生するとたちまち大火となり、多くの犠牲者がでたこと、さらに明治19年(1886年)市内にコレラが大流行し、842人に及ぶ市民が死亡したことなどが契機となって、水道建設の要望が一層高まり、明治21年(1888年)念願の一大事業が着工された。
ここは、創設の時つくられた配水池がある「元町配水場」で、市街地北側にある赤川の高区浄水場から11Kmの送水管によりこの配水場に送られてきた水を市内西部地区に供給している。 函館の水道施設は、創設から6回にわたる拡張工事を行い、現在30万人の函館市民に清浄な水を供給している。函館市

Hakodate Waterworks
Hakodate waterworks was completed in 1889 and the second in Japan. The first waterworks was in Yokohama, and was designed and supervised by foreigners in 1887. Hakodate’s waterworks is famous because it was designed and constructed by the Japanese for the first time. Before 1889, Hakodate”s public water system had not been the best. Hakodate is located on the Tsugaru strait. The winds that blow off the strait have caused many disastrous fires. Many people lost their lives fighting these fires. In 1886、 842 people died of cholera, which caused a cry from the people for a new waterworks to be built in 1888. The distributing reservoir in Motomachi supplies water to the west area of Hakodate through a 11 kilometerwaterpipe, from the Akagawa filtration plant at the north of the urban area. Hakodate’s water service has had six extensions and now supplies about 300,000 citizens with clear water. CITY OF HAKODATE

 

土木遺産の碑

2008年7月21日撮影。

 

土木遺産に関する碑の内容は以下のとおり。

土木学会選奨土木遺産
〜函館市の水道施設群(元町配水場)〜

土木学会の選奨土木遺産は、建設後、半世紀以上を経過した、高い価値のある歴史的土木施設を称えるもので、この元町配水場は、函館市の水道施設群として笹流ダムとともに平成13年度の選奨土木遺産に認定されました。

元町配水場には、明治22年(1889)完成の中区配水池と明治29年(1896)完成の高区配水池があり、どちらも建設後100年以上を経過しています。
特に、中区配水池は、日本人(平井晴二郎氏:後の鉄道庁総裁)の設計監督による最初の近代水道の施設で、現在もその役割を果たしている日本最古の配水池です。
この配水場から配られる水は、函館市西部方面の市民が利用しています。

噴水塔

2008年7月21日撮影。

噴水に関する碑の内容は以下のとおり。

淸泉滾滾(せいせんこんこん)
函館の水道は、明治22年(1889)9月20日、日本で2番目の近代水道として、この配水池から通水を開始しました。上段の噴水塔は、これを記念して当時鋳鉄管を納入した東京のイリス商社から寄贈された噴水塔のレプリカです。
銘文の「淸泉滾滾」は、通水式当日の函館新聞に掲載された祝詞の一節「幾多の財をなげうち幾多の心労を積み赤川の水流を導き来って当市を横流せしめ滾々たる淸泉ここに噴出するを見るに至る」より引用したものです。
これからも函館の水道が、淸水のようにこんこんとわき出て永遠に街を潤していくことを願い、平成元年(1989)函館水道創設100周年を記念してこの噴水池を建設しました。

 

管理棟

2008年7月21日撮影。現在も管理事務所として利用されている煉瓦造りの建物。


2010年道東の旅

夏休みで北見の実家に帰省し、ついでに昔住んでいた遠軽町にドライブ。

気温は意外にも高かったものの、湿度の低いジリジリした暑さ。夜は涼しく非常に快適。

北見市のタマネギ畑

実家の向かいに広がるタマネギ畑。タマネギは北見市の名産品。

 

北見塩焼きそば

恥ずかしながら、最近北見で売り出しているという「塩焼きそば」を初めて食す。北見塩焼きそばの元祖、ホテル黒部。

 

北見市役所

ホテル黒部の向かいは、歴史的建造物である北見市役所。私が高校生の頃もかなり老朽化していたが、今年もまだ現役で活躍中。窓ガラスの縁に張られたビニール、ガムテープが建物の古さを際立たせている。

 

四条ホルモン

夜は念願の四条ホルモンへ。昨年は混雑しており入れなかったため、今年は予約してから入店。

 

四条ホルモンの焼肉

焼き肉は文句なし。完璧です。ハッカ入りの北見ハイボールも美味。ハイボールよりもさらに飲みやすくなっているので、ウィスキー苦手な方にもオススメ。

 

遠軽南小

母校、遠軽南小学校。小学5年〜6年と通学。近所の風景はあまり変わっていないように思えるが、新しい家がたくさん建っており、昔の友人の家などがわからなくなってしまった。

 

遠軽町太陽の丘公園

遠軽町太陽の丘公園。コスモス畑は残念ながら5分咲き。満開時の景色は圧巻。

最近の北海道では「花」を中心に広大な土地を活用する事例が多いように思われる。芝桜、ラベンダー、ひまわり、コスモス。いずれも中途半端な規模ではなくて、あたり一面、というのが成功の秘訣だろうか。

遠軽の隣の湧別もチューリップ畑で有名。

 

遠軽町瞰望岩

遠軽町瞰望岩。遠軽のランドマークとなっている巨岩。岩の上からは町を一望できるが、転落には十分な注意が必要である。

 

どか弁

遠軽町の隠れた名店ドライブインどか弁。20年ぶりの訪問。

昔とまったく変化ない店内。そして相変わらずの盛りの良さ。


高田屋嘉兵衛銅像(2008年)

高田屋嘉兵衛銅像

2008年7月21日撮影。函館の発展に多大な貢献をした高田屋嘉兵衛の銅像。司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の主人公としても描かれた。

 

函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。

 

高田屋嘉兵衛銅像
この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。制作著は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。 嘉兵衛は明和6(1769)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。文政元(1818)年に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。 さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。この像は、文化10年(1813年)、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。函館市

THE STATUE OF TAKADAYA KAHEI
This statue was built in 1958 in commemoration of the 100th anniversary of Hakodate Port”s opening and also in honor of Kahei ”s achievements. It was made by the sculptor Yanagawa Goichi who was a native of Hakodate. Kahei was born on Awaji Island in 1769 and came to Hakodate at the age of 28、 He made great contributions to the initial development of Hakodate and returned to his hometown in 1818. He managed a shipbuilding and marine transportation business along with a fishery here in Hakodate and he developed the ocean lanes and fisheries in both Kunashiri and Etorohu Islands. He is also famous as the mediator of the Golovnin Incident、 a Russo-Japanese international conflict、 in spite of the fact that he was a civilian. This statue depicts him at the scene of Golovnin”s being handed over to the captain of the Russian warship Diana in 1813. He is in a traditional Japanese full dress of a hakama、 white tabi、 straw sandals and a sword. In his right hand he is carrying an admonition of the Matsumae magistrate and in his left hand he is holding the everyday cloths which he had changed from in the warship. CITY OF HAKODATE


護国神社坂(2008年)

護国神社坂

2008年7月21日撮影。護国神社坂。植栽もきれいに整備されており、正面に護国神社の鳥居が見える。

 

坂の案内板の内容は以下のとおり。

 

護国神社坂(ごこくじんじゃざか)
別名「汐見坂」ともいい、昔は「招魂社の坂」とも「倒産坂」ともいった。汐見坂は坂上に汐見町ができ、その町名からとったもの。招魂社の坂は明治2年(1869年)に建立された招魂社(現護国神社)に登る坂ということから呼ばれ、現在の名になった。倒産坂は坂に面して門を立てると罰が当たって”かまど”がつぶれるといわれ,昔は門を坂に面しないようにした。

GOKOKUJINJA ZAKA SLOPE
Another name for this slope is ”Shiomi Zaka. ” In days gone by this slope was cal.led ”Shokonsha no Saka” and ”Tosan Zaka. ” It was once named ”Shiomi Zaka” because the area at the upper part of this slope is called Shiomi cho. It was also once called ”Shokonsha no Saka” because at the top of this slope is a shrine Shokonsha (now called ”Gokoku Jinja, or a shrine for the war dead”) which was established in 1869. ”Tosan (bankruptcy) Zaka” came from the saying that if anyone erected a gate facing this slope, he would be destined to go bankrupt because of God”s punishment. Therefore, people tried to observe this tradition. CITY OF HAKODATE


史跡松前藩戸切地陣屋跡(2008年)

史跡松前藩戸切地陣屋跡

2008年7月21日撮影。

 

松前藩戸切地陣屋図面

2008年7月21日撮影。

 

案内板に記載の内容は以下のとおり。

 

史跡松前藩戸切地陣屋跡

この陣屋は、安政2年(1855)幕府に命じられ松前藩が築いたものです。
構造は、四稜郭で亀が首を出した形をしており6つの砲座があります。
郭内には17棟の建物があり、約120人で守備していましたが、完成から13年後の明治元年(1868)箱館戦争の時、相手方に陣屋が使われないよう建物に火をつけ焼払っています。
この陣屋は、保存状態もよく城造りの資料として価値が高いことから、昭和40年3月18日、国の史跡に指定されました。


函館山(2008年)

函館山とロープウェイ

2008年7月21日撮影。函館山とロープウェイ。

 

函館山

2008年7月21日撮影。

 

函館山ロープウェイ

2008年7月21日撮影。ロープウェイのゴンドラ。125人乗りらしい。

 

函館山の頂上には函館山の歴史を観光標識が設置されている。その内容は以下のとおり。

 

函館山

函館山は、幾たびもの火山活動により海中に隆起した孤島であったが、約3000年位前に、海水により港側と外海側から次第に砂が堆積されて砂州ができ、函館山は渡島半島と陸続きになった。函館の中心街はこの砂州の上にある。
函館山の地質は、約2500万年前に噴出した安山岩で、五稜郭や弁天台場などの工事にこの山の石を用いた。
函館山の最高峰は、ここ御殿山で標高334mあり、このほか、薬師山、観音山、千畳敷、鞍掛山などがあるが、この山の形が牛の臥している姿に似ているので、別名臥牛山とも呼ばれている。
山頂からは、扇状にひろがる市街地、遠く駒ケ岳、汐首岬も望まれ、晴れた日は、本州の下北半島も見られるが、特に市街地の夜景は世界一といわれる美しさである。
函館山の右手、西端には、異郷の地で永遠に眠る外国人の墓、外人墓地があり、左手、東端には薄幸の詩人石川啄木とその一族が眠る立待岬があるほか、山麓には数多くの名所、旧跡が散在している。
展望台壁面には、寛政12年(1800年)5月28日、伊能忠敬が北海道最初に測量したことを記念したレリーフがあり、また、前方の広場には、ブラキストンラインで有名なブラキストンの記念碑もあるなど、学術的にも貴重な山である。 函館市

MT. HAKODATE

Mt.Hakodate used to be a protuberant isolated island in the sea after many volcanic activities. About 3、000 years ago sand got accumlated gradually from the port side and the open sea. That then grew to be a sand bar.Mt Hakodate was connected by this sand bar to the Oshima Peninsula.
The nature of the soil in Mt. Hakodate is andesite which erupted about 25、000、000 years ago. When Goryokaku and the Benten Fort were constructed、stones from Mt. Hakodate were used.
The top of Mt. Hakodate called Mt. Goten is 334 meters above sea level. As the shape of Mt. Hakodate together with Mt. Yakushi、 Mt. Kannon Mt. Kurakake、 and Senjojiki looks like a lying cow、 iti is calledgagyuzan meaning Mt. lying cow. From the top of the mountain one can see the wonderful sight of a fan-shaped city.Also from the top of the mountain、 on a clear day、 one can see Mt. Komagatake、 the Shiokubi cape、 and the shimokita Peninsular of the main island. The night view looking from Mt. Hakodate is notably remembered as one of the most fantastic views in the world.At the foot of the mountain there are many noted places and historic spots such as a foreign cemetery to the west、 on the right of Mt. Hakodate、 and the Tachimachi cape to the east on the left of Mt. Hakodate.
On the Tachimachi cape there is a tombstone for an ill-fated poet、 Takuboku、and his family. A wall relief for the memory of Tadataka Inou’s first measuring in Hokkaido in 1800 is on the surface of a wall in the observatory deck. In the square in front there is a monument of Blakiston who is famous for the Blakiston line. Scientifically、 too、 this mountain is significas.

 

津経要塞跡

明治30(1897)年、函館山で要塞工事が始まり、32年11月函館要塞として完成したが、昭和2(1927)年4月に津軽要塞と改称された。敷地は保安林も含め御殿山、薬師山、千畳敷、谷地頭付近の約16万坪が陸軍省の所管となり、昭和21(1946)年5月の開放までは、一般市民の立入りはもちろん、写生、撮影ならびに測量などが一切禁止された。
現在も函館山の各所に地下壕跡などが残されている。

函館山の植物

函館山は、その山容が標高わずか334m、周囲約9kmの小さい山でありながら、地形が複雑多岐であり、植物の生育環境が多様であることから、植物種は極めて多く、北方系と南方系が混生しており、その数は600種余りと言われ、まさに自然が造りあげた植物園である。
白然林もさることながら、箱館奉行や開拓使によって植林されたスギやマツの群生が見られる。また、道路沿いや裸地に自立つセイヨウタンポポなどは、明治初期に移入されたものであるが、このような帰化植物は30数種類あると言われている。
これらの豊富な植物は、要塞が築かれてから50年近くも入山禁止となったために自然が守られ、保護された結果であろう。
ここはまた鳥類の楽園としても知られている。
津軽海峡が動物分布上の境界線をなすことを発見した、英国人ブラキストンは、函館山の鳥類を調べてこの境界線(ブラキストンライン)を発表した。現在、留鳥と渡り鳥を合わせて約150種が見られる。函館市

TSUGARU FORT AND THE PLANTS FOUND ON MT. HAKODATE

REMAINS OF TSUGARU FORT

In 1897 construction of Hakodate Fort started on Mt. Hakodate and it was completed in November 1899. In April 1927 it was renamed Tsugaru Fort.
The whole site of about 160、000 tsubo (632、320 square yards) including the forest reserve、 Gotenyama、 Yakushiyama、 Senjojiki and Yachigashira was under the jurisdiction of the Ministry of War until May 1946. Until then not only was it forbidden for citizens to enter the mountain area、 but sketching、 taking photographs and surveying were also strictly forbidden. Even today some underground shelters still remain.

THE PLANTS ON MT. HAKODATE

Mt. Hakodate、 only 334 meters above sea level and about 9 kilometers in circumference、 has a complicated and divergent topography. Over 600 species of plants grow here、 including plants which can be found in both northern and southern parts of Japan.
This whole mountain can be called a huge natural botanical garden. Here can be found gregarious Japanese cedars and pjne trees、 which were planted by Hakodate Bugyo (commissioner) and the Kaitakushi (Hokkaido Colonization Bureau).
Common dandelions along the road side and on the uncultivated lands are thought to have entered Japan from abroad in the early days of the Meijj period.
It is said that about thirty various plants among them were naturalized in Japan.
These plants grew untouched because the military prohibited people from entering the area for nearly 50 years after the construction of the Fort.
Mt. Hakodate is also known as a paradise for birds. Thomas W. Blakiston who came from England、 researched the birds on Mt. Hakodate and discovered the geographical distribution of animals (now called the Blakiston Line).
This line is drawn along the Tsugaru Straits.
At present there are about 150 species of both resident and migratory birds. CITY OF HAKODATE


立待岬(2008年)

立待岬の碑

2008年7月12日撮影。立待岬の碑。

函館山の下を進み、谷地頭を抜け、お墓を通り過ぎると立待岬。


立待岬の眺め1

2008年7月12日撮影。


立待岬の眺め2

2008年7月12日撮影。


函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。


この地名は、アイヌ語のヨコウシ(待ち伏せするところ、すなわち、ここで魚を獲ろうと立って待つ)に困むという。18世紀末に幕府が蝦夷地を直轄すると、警備のため、ここに台場が築かれたことがあった。また、第二次世界大戦中は、要塞地帯法により市民は立ち入りを禁じられていた。現在は、津軽海峡を望む景勝地として、多くの観光客が訪れている。近くには石川啄木一族の基や与謝野寛、晶子の歌碑もある。   函館市

”CAPE TACHIMACHI ( YOKO-USHI ORIGlNAL AlNU PLACE NAME)”

TACHIMACHI is derived from the Ainu name for this cape YOKOUSHI. YOKOUSHI means the place where people stand and wait to catch fish. The present Japanese name is thus a translation of the Ainu words、 YOKO (to stand and wait for prey to come) and USHI (place)、 thus、 the Japanese Tachi Machi.
At the end of the 18th century when Ezochi (Hokkaido) became a place under the direct control of the Tokugawa Shogunate、 the shogunate built a fort in this area. During World War II、 citizens were prohibited to enter this mountain area because of the Fortified Zone Law. Currently、 many tourists visit here as a scenic spot to command a great view of the Tsugaru Straits. The poem monument of Yosano Hiroshi & Akiko and the tomb of the Ishikawa Takuboku family can be found very near here.CITY OF HAKODATE




函館大火慰霊堂、慰霊塔

函館大火慰霊堂は、大森公園内に昭和13(1938)年に完成。

昭和9年の函館大火の際、この慰霊堂の横を流れる亀田川において多くの凍死者、溺死者を出している。

函館大火慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊堂〜正面斜め

2008年7月6日撮影。

 

記念塔、慰霊塔、慰霊堂

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔

2008年7月6日撮影。

 

函館大火慰霊塔〜下から

2008年7月6日撮影。

 

記念塔の板碑に刻まれている内容は以下のとおり。

 

函館大火災惨害記念塔建立由来

「昭和9年(1934年)3月21日夕刻に住吉町より発生した火災は、史上稀にみる烈風に煽られ市街地は一夜にして焼土と化し、その罹災者は約10万2千人を数える大惨事となり、死者行方不明者は2千8百28人を数えるに至った。
折悪しく、市街地を縦断する新川(亀田川)に掛かる、此処「大森橋」は渦巻き吹き上げ迫る猛火に逃げ惑い追われる人々が、唯一の避難路として殺到する中、その橋も瞬く間に炎焼し身動きとれぬ人々は、寒波厳しい横殴りの風雪を伴って、荒れ狂う浜風で怒濤逆巻く川に投げ出され高潮に呑まれるなどの惨状を呈し、一夜明けたこの川辺一帯は、溺死凍死焼死者が折り重なっての、悲惨壮絶を極めた受難の地と化していた。
この受難者の霊を慰め祀らんと、慰霊堂建設の計画が立てられ昭和12年(1937年)5月、市はその基礎工事に着手した。
この慰霊堂の建設に呼応し、在市の宮本武之助(函館商工会議所副会頭)は、慰霊堂と一対をなす、「五重の塔」(慰霊塔)の付設建立寄進を申し出、その許しのもと自らも私財を供し、宗教団体(京都を本拠に慰霊活動をする「弘安海」)の大きな協力を得るなどの奔走の中、この五重の塔の完成をみた。
因みに、この塔の材質は花崗岩を選び、京都の嵯峨・大覚寺に納められんとした由緒や、その秀れた石組みの技法など貴重にして高いものがあると云われ、船により運ばれ此の地において組立てられ建立を見たものである。
塔の最上五層の中軸柱の頂部中心には、水晶の珠を捧げ持つ精巧な青銅の龍神の彫像が祀られ、又、地下の基礎には全国から寄せられた叺(かます)が49俵の「写経石」がコンクリートと共に練り込み納められ、その安らかなる霊への哀悼が深くこめられ塔を支えている。
又、本堂たる慰霊堂はその基礎工事に着手はしたものの建築材料の暴騰によりその財源捻出に苦慮する中、思わぬ建設計画の遅れに悩む坂本森一市長に協力しこれにも宮本武之助は、その円滑なる事業の完成にと篤志の寄附を、自らの倹約励行をもって申し出るなど、慰霊堂の建設(総事業費約11万4千円)に大きな貢献をなしている。
かくして昭和13年(1938年)10月8日、本堂を埋める多くの人々の参列のもと、入仏落慶式がいとも厳粛な中、盛大に挙行され無事その完成をみたのである。」

あまたの御霊安らかにましませ

この記念塔建立由来板は、本塔の建立に多大な貢献をされた故宮本武之助氏長男である宮本徹也・靖子御夫妻が作製され、本市に寄贈されたものです。

平成13年(2001年) 函館市

 


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