「地域アイデンティティの再構築」

25日(土曜)13時から、日本学術会議にて開催されたシンポジウム「地域アイデンティティの再構築—地域再生と地域主権への地理学からの接近—」に出席。

 

基調講演は名古屋産業大学名誉学長の伊藤達雄先生。「地理学」ももっと政治に接近(提言とか)しても良いのではないか、という視点の試論を紹介。

 

関西大学の野間晴雄先生は、「地産地消が地域再生の鍵となる要件—歴史的原像を踏まえて—」と題した講演。1980年代に消費者の食への安全志向等が高まったことにより「地産地消」という用語が成立し、近年では「食育」という概念に発展しているとの説明。その他、地産地消の事例紹介があった。

 

成蹊大学の小田宏信先生は「中小製造業の世界における地域アイデンティティ」と題した講演。ドイツの製造業の地域形成について紹介された。

 

別な用事があったため残念ながら小田先生の講演のあと退席させていただいたが、学術会議のシンポジウムというだけあって、全体的に、学問的な研究者の視点からの講演が中心であったように思われる。相当な基礎知識を持っていないと、まったく付いていけない印象。(私も正直かなり厳しかったです・・・。)

ただ、野間先生の講演は分かりやすく、地産地消の事例として紹介いただいた各地の道の駅等の取組み事例は大変参考になった。道の駅に高齢者が出荷し、良い小遣い稼ぎになっている事例などは、個人的に非常に興味のある取組み。

 

日本学術会議

 

日本学術会議講堂


トラピスチヌ修道院(2008年)

函館を代表する観光スポットであるトラピスチヌ修道院。

北斗市のトラピスト修道院が男子修道、こちらは女子修道院。

観光地ながられっきとした修行の場であるため、修行の邪魔とならないような注意を払い、敬意をもって拝見すべき厳かな場所。

駐車場の声かけが少し残念だったような・・・(今はどうなっているか分かりませんが)

 

トラピスチヌ修道院

2008年9月6日撮影。

 

トラピスチヌ修道院

2008年9月6日撮影。

 

函館市設置の観光標識の内容は次のとおり。

巌律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院
天使の聖母トラピスチヌ修道院は、明治31(1898)年、フランスのウプシーにある修道院から8名の修道女が来たのが始まりである。キリスト教伝道のためには、修道院の精神的援助が必要であると、函館教区長ベルリオーズ司教が要請していたものであった。
草創期の修道女たちの生活は困難を極め、それを見かねたフランスから、引き揚げが伝えられるほどであった。
現在の建物は大部分が大正14(1925)年の火災後、昭和2(1927)年に再建されたものである。
函館市
THE TRAPPISTlNE CONVENT organized by Citeaux Order
Our Lady of the Angels’ Convent, The Trappistine Convent, was founded in 1898 by eight French nuns who came from the convent in Ubexy (France). Bishop Berlioz of the Hakodate diocese asked them to come because he felt there was a great need to spread Christianity.
The nun’s living conditions at the beginning were very poor, so much so, that the headquarters in France was considering to recall their nuns.
Most of the present building was reconstructed in 1927 after being burnt down in 1925.
CITY OF HAKODATE

梅若塚木母寺

東白鬚公園内散歩中に撮影。梅若塚で有名な木母寺、天台宗の寺。

たくさんの塚があるものの、その一つを拝見中、偵察係とおぼしきスズメバチが接近してきたためそそくさと退散。もう少し涼しくなってから、再度散策することにする。

梅若塚木母寺

2010年9月19日撮影。

 

梅若塚木母寺

2010年9月19日撮影。

 

梅若塚木母寺

2010年9月19日撮影。



旧東照宮と権現台場跡周辺(2008年)

旧東照宮と権現台場跡

2008年7月26日撮影。函館市設置の観光標識の内容は次のとおり。

 

 

旧東照宮と権現台場跡(ごんげんだいばあと)
東照宮は、元治元年(1864年)五稜郭が完成した時、その鬼門(東北)の守護神とするため、日光東照宮から分霊奉造を受けた日高様似の等澍院から東照大権現を分霊して、上山村(現市内神山町)に建てたのが始まりである。
明治元年(1868年)五稜郭を占拠した旧幕府脱走軍は翌2年五稜郭北面守備のため四稜郭を急造、さらに五稜郭との重要な結節点にあたる東照宮に砲台(権現台場といわれている。)を設けた。しかし、同年この砲台は新政府軍の攻撃を受け、東照宮も社殿を焼失した。
東照宮は、その後、箱館の天祐庵(現在の青柳町天祐寺)など転々としたが、明治12年(1879年)宝来町に移り、平成3年(1990年)に陣川町に移転した。
この大鳥居は、五稜郭や弁天台場の石垣造りを担当した石工井上喜三郎の作で、箱館戦争の砲火にも壊されずこの地に残った。
函館市

 

 

神山開基三百年記念碑

2008年7月26日撮影。函館市内神山地区の由緒が記された開基三百年記念碑。碑の内容は次のとおり。

 

貞享元年(1684年)この神山の地に七戸の人佐四郎が鍬を入れて以来開拓に精進された多くの先達の労苦に感謝し神山永久の繁栄を願いここに記念の碑を建立する

昭和60年5月 神山開基三百年記念協賛会 会長 長崎喜久夫


トラピスト修道院(2008年)

トラピスト修道院へ続く道

2008年7月26日撮影。北斗市、トラピスト修道院へ続く一本道。

 

トラピスト修道院〜草原

2008年7月26日撮影。トラピスト修道院前の原っぱ。冬は一面、雪野原となる。

 

トラピスト修道院からの眺め

2008年7月26日撮影。トラピスト修道院前からの眺め。並木道の先に津軽海峡が見える。

 

トラピスト修道院

2008年7月26日撮影。トラピスト修道院を正面から。

 

修道院の由来、沿革が記された看板の内容は以下のとおり。

 

 

トラピスト修道院の由来
正式名は、厳律シトー会灯台の聖母大修道院という。
明治29年(1896年)フランスから数名の修道士たちが木造の修道院を建てた。
日本で、最初の男子修道院であります。
トラピストの生活は、祈り、労働、読書(聖なる書物)で、その1日は、祈りにより始まり祈りによって終わります。
創立以来、畑の開拓、農耕、牧畜、酪農に力をいれ、ホルスタイン乳牛の輸入をし、その普及は北海道の酪農振興に多大な貢献をいたしました。
明治36年、木造の修道院は焼失した。
現在の二階建本館は、明治40年着手し翌年完成しております。また聖堂は昭和49年に建てられたものです。
トラピストでつくられるバタークッキーは今では北海道を代表する特産品として全国的に広がり、上磯町が誇る一村一品であります。
日々、たえることなく鳴りひびくアンジェラスの鐘、黙々と祈りと労働を持って神に仕える修道士の姿、ここには異国にみる聖地の情景があり訪れる人々の心を和らげます。
 
 
トラピスト修道院の沿革
明治29年(1896年)にフランスから数名の修道士が来日して、津軽海峡を眼下に臨む当地にトラピスト修道院を設立しましたが、トラピストの歴史は古く、その起源は11世紀にまでさかのぼります。
聖ロベルト(1018年〜1111年)は、現在のフランス・シトーの地に新修道院を創設し(1098年)、ここからシトー修道会が生まれました。
そして、1664年、シトー修道会に属するトラップ修道院(フランス)で、より厳格な生活を望む改革運動が起こり、この流れを汲むものをトラピストと呼ぶようになりました。
トラピスト修道院はカトリック教会に属し、日本国内には七つの修道院(その内五つは女子でトラピスチヌとして知られています)を持ち、国外には137の修道院(その内、50は女子)があります。聖書の教えと、聖ベネディクト(480年〜547年)の修道戒律に従い、「祈り・労働・聖なる読書」を中心とした観想生活を送っています。

亀戸天神社御鳳輦渡御祭

御鳳輦渡御祭

2010年8月21日、錦糸町駅前にて撮影。4年に1度、大祭のときに巡行する御鳳輦渡御祭(ごほうれんとぎょさい)。写真は黒い馬が牽引する馬車。御鳳輦とは中国から伝わったもので、中国の天子や位の高い僧侶が乗る乗り物のこと。それを馬ではなく黒い牛が引くそう。

白鬚神社大祭といい、東京に来てすぐに4年に一度の祭りを見ることが出来て感激。タイミングが悪かったら一度も見ることが出来ないので。


墨堤通り沿い早朝散歩

墨堤通からスカイツリー

2010年8月26日撮影。早朝なのでさすがに車の通りは少ない。スカイツリーへと続いているかのように見える墨堤通り。

 

隅田川神社参道

2010年8月26日撮影。墨堤通りと東白鬚公園との間には高層マンション(都営住宅)が連続しているが、その間を縫うように隅田川神社の鳥居と参道が続いている。奥に進むと隅田川神社。

 

榎本武揚の像

2010年8月26日撮影。榎本武揚と言えば、道南、函館でもよく耳にする歴史上の人物のひとり。晩年に向島で過ごしたというのは知らなかった。

 

以下は墨田区教育委員会設置の説明版の内容。

 

榎本武揚の像

所在 墨田区堤通2丁目26番3号 梅若公園内

武揚は、天保7年(1836)下谷(現台東区)の通称三味線堀に生まれました。天性聡明で学問を好み、昌平黌で儒学を、さらに江川太郎左衛門の塾でオランダ語・英語を学びました。幕府の海軍伝習所が開設されると入所し、オランダ人教官より洋式海軍技術・蒸気機関・機械製造等を習得、当時未知の学問であった化学までも学びました。さらに文久2年(1862)にオランダに留学、国際法規も修めました。帰国後、軍艦奉行や海軍副総裁へと昇進、幕府海軍の柱となります。幕府が崩壊するや軍艦を率いて函館の五稜郭に拠り、薩長軍と戦いますが敗れて捕えられます。しかし、明治新政府内に彼の人物を惜しむ声が強く、明治5年許されました。当時難問とされた樺太帰属問題解決のため、海軍中将・特命全権公使としてペトログラードに派遣され、みごと交渉に成功します。その後、逓信・文部・外務・農商務の各大臣を歴任、枢密顧問官となり、功により子爵を授けられました。晩年は向島に住み、墨堤を馬に乗って散歩する等悠々自適の生活を楽しみ、同41年に73歳で死去しました。隅田公園内の「墨堤植桜之碑」や多門寺の「毘沙門天」の標石等、武揚の筆跡が区内の所々に残されています。

平成18年3月   墨田区教育委員会


元町配水場(2008年)

国内では横浜に次ぐ古い近代水道。さらに、日本人の設計・工事によるものとしては国内最古の施設である。

 

元町配水場

2008年7月21日撮影。

 

元町配水場に関する函館市設置の観光標識の内容は以下のとおり。

函館の上水道
函館の水道は、明治22年(1889年)に完成した日本で二番目の近代水道である。日本最初の水道は横浜で、これは外国人の設計監督により明治20年(1887年)に完成した。日本人の工事監督によるものとしては、函館の水道が日本で最初のものであり全国的に有名である。函館は昔から水利の便が悪く、また津軽海峡に突き出た地形のため年間を通して風が強く、火災が発生するとたちまち大火となり、多くの犠牲者がでたこと、さらに明治19年(1886年)市内にコレラが大流行し、842人に及ぶ市民が死亡したことなどが契機となって、水道建設の要望が一層高まり、明治21年(1888年)念願の一大事業が着工された。
ここは、創設の時つくられた配水池がある「元町配水場」で、市街地北側にある赤川の高区浄水場から11Kmの送水管によりこの配水場に送られてきた水を市内西部地区に供給している。 函館の水道施設は、創設から6回にわたる拡張工事を行い、現在30万人の函館市民に清浄な水を供給している。函館市

Hakodate Waterworks
Hakodate waterworks was completed in 1889 and the second in Japan. The first waterworks was in Yokohama, and was designed and supervised by foreigners in 1887. Hakodate’s waterworks is famous because it was designed and constructed by the Japanese for the first time. Before 1889, Hakodate”s public water system had not been the best. Hakodate is located on the Tsugaru strait. The winds that blow off the strait have caused many disastrous fires. Many people lost their lives fighting these fires. In 1886、 842 people died of cholera, which caused a cry from the people for a new waterworks to be built in 1888. The distributing reservoir in Motomachi supplies water to the west area of Hakodate through a 11 kilometerwaterpipe, from the Akagawa filtration plant at the north of the urban area. Hakodate’s water service has had six extensions and now supplies about 300,000 citizens with clear water. CITY OF HAKODATE

 

土木遺産の碑

2008年7月21日撮影。

 

土木遺産に関する碑の内容は以下のとおり。

土木学会選奨土木遺産
〜函館市の水道施設群(元町配水場)〜

土木学会の選奨土木遺産は、建設後、半世紀以上を経過した、高い価値のある歴史的土木施設を称えるもので、この元町配水場は、函館市の水道施設群として笹流ダムとともに平成13年度の選奨土木遺産に認定されました。

元町配水場には、明治22年(1889)完成の中区配水池と明治29年(1896)完成の高区配水池があり、どちらも建設後100年以上を経過しています。
特に、中区配水池は、日本人(平井晴二郎氏:後の鉄道庁総裁)の設計監督による最初の近代水道の施設で、現在もその役割を果たしている日本最古の配水池です。
この配水場から配られる水は、函館市西部方面の市民が利用しています。

噴水塔

2008年7月21日撮影。

噴水に関する碑の内容は以下のとおり。

淸泉滾滾(せいせんこんこん)
函館の水道は、明治22年(1889)9月20日、日本で2番目の近代水道として、この配水池から通水を開始しました。上段の噴水塔は、これを記念して当時鋳鉄管を納入した東京のイリス商社から寄贈された噴水塔のレプリカです。
銘文の「淸泉滾滾」は、通水式当日の函館新聞に掲載された祝詞の一節「幾多の財をなげうち幾多の心労を積み赤川の水流を導き来って当市を横流せしめ滾々たる淸泉ここに噴出するを見るに至る」より引用したものです。
これからも函館の水道が、淸水のようにこんこんとわき出て永遠に街を潤していくことを願い、平成元年(1989)函館水道創設100周年を記念してこの噴水池を建設しました。

 

管理棟

2008年7月21日撮影。現在も管理事務所として利用されている煉瓦造りの建物。


2010年道東の旅

夏休みで北見の実家に帰省し、ついでに昔住んでいた遠軽町にドライブ。

気温は意外にも高かったものの、湿度の低いジリジリした暑さ。夜は涼しく非常に快適。

北見市のタマネギ畑

実家の向かいに広がるタマネギ畑。タマネギは北見市の名産品。

 

北見塩焼きそば

恥ずかしながら、最近北見で売り出しているという「塩焼きそば」を初めて食す。北見塩焼きそばの元祖、ホテル黒部。

 

北見市役所

ホテル黒部の向かいは、歴史的建造物である北見市役所。私が高校生の頃もかなり老朽化していたが、今年もまだ現役で活躍中。窓ガラスの縁に張られたビニール、ガムテープが建物の古さを際立たせている。

 

四条ホルモン

夜は念願の四条ホルモンへ。昨年は混雑しており入れなかったため、今年は予約してから入店。

 

四条ホルモンの焼肉

焼き肉は文句なし。完璧です。ハッカ入りの北見ハイボールも美味。ハイボールよりもさらに飲みやすくなっているので、ウィスキー苦手な方にもオススメ。

 

遠軽南小

母校、遠軽南小学校。小学5年〜6年と通学。近所の風景はあまり変わっていないように思えるが、新しい家がたくさん建っており、昔の友人の家などがわからなくなってしまった。

 

遠軽町太陽の丘公園

遠軽町太陽の丘公園。コスモス畑は残念ながら5分咲き。満開時の景色は圧巻。

最近の北海道では「花」を中心に広大な土地を活用する事例が多いように思われる。芝桜、ラベンダー、ひまわり、コスモス。いずれも中途半端な規模ではなくて、あたり一面、というのが成功の秘訣だろうか。

遠軽の隣の湧別もチューリップ畑で有名。

 

遠軽町瞰望岩

遠軽町瞰望岩。遠軽のランドマークとなっている巨岩。岩の上からは町を一望できるが、転落には十分な注意が必要である。

 

どか弁

遠軽町の隠れた名店ドライブインどか弁。20年ぶりの訪問。

昔とまったく変化ない店内。そして相変わらずの盛りの良さ。


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