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松前天保凶荒録_函館県_編

北海道大学北方資料データベースにて天保期の凶荒の惨状を記録した「松前天保凶荒録」が公開されている。当時の道南各地の状況がよくわかる貴重な資料である。元の記録の成立は明治19年だが、公開されている資料は大正4年に河野常吉が写したものらしい。

画像データを見ながらテキスト化してみた。入力に際して、旧字体、異体字等表記の平仄のとれていない箇所、誤字、誤読が多々あると思われる。あらかじめ御了承いただきたい。また、読めない箇所は「■」とした。お気付きの点等あれば御指摘いただきたい。

松前天保凶荒録

第二七号
松前天保凶荒録

松前天保凶荒録

此書明治十九年一月函館県ニ於テ天明并ニ天
保ニ於ケル凶歳ニ関スル惨状并ニ救済ノ状況ヲ
県下郡役所及町村役場ニ命シテ記録口碑
等ニ記キテ調査報告セシメタルモノナリ但シ天
明度ノ調査ハ憑拠ナキ記事多キヲ以テ抄録
セス天保度ノミヲ抄録ス原本ハ備荒貯蓄
一件ト表題シアリ北海道庁公文書 タ調七号冊号二四四 ニ
アリ
 大正四年八月二日■1)

函館区長聞取概要

   函館区長聞取概要
天保四年諸国大ニ飢饉ス殊ニ我北海道ニ米穀
ヲ供給スベキ秋田南部津軽等ノ地方五穀実ラ
ズ餓孚道途ニ横ハリ其最モ甚敷ニ至リテハ子
ハ親親ハ子ノ死屍ヲ食フ如キ惨状ヲ極メタル
コトアリト云フ是ヲ以テ当函館ノ如キハ可成在
米ヲ保存シ渇乏ヲ防クカ為メ函館奉行令シ
テ「ヲシメ」昆布ヲ混交セル粥ヲ作リ食ハシム庁
衙ニ出入スル吏員ハ勿論御用達等マデモ其弁
当ニハ皆粥ヲ用ヒザルハナク若シ「ヲシメ」ヲ混
ゼザル弁当ヲ喫スルモノアレバ奉行ノ譴責ヲ

受クルコト甚ダ厳ナリ
此年ノ影響ニヤ許ノ如キモノ延テ同八年ヨリ
九年ニ及ビタリ其最モ在穀欠乏ノ時ハ四斗入
一俵玄米ニテ二両三分三朱 平常ナレハ大方相場ニシテ一貫二三百文位ノ価格ナリ 大麦
四斗入一俵一両三分三朱ニ及ベリ
加賀国橋立ノ商人西出孫左衛門 屋号西出 久保彦兵衛
屋号小餅屋 両家ハ旧来当地方トノ取引ヲ専業トシ以
テ其身代ヲ仕上ゲタルモノナルガ故ニ当地ノ
有様ヲ聞キ及ビ直チニ其手船ヲ九州ニ回漕シ
幾許ノ米穀ヲ買入レ当港ニ積下シタリ当時ノ
函館奉行小林三左衛門乃チ之ヲ買上ゲ市中毎
戸ヘ割当テ払下ク前項ノ価格ハ即チ此九州米
ナラント云フ

茲ニ最モ僥倖ヲ得タルハ鯡及ヒ蜊大根蕨ノ根
等ノ食料ヲ助ケタルコト是レナリ当時ハ現今ノ
如ク築出シ埋立等ノ事ナカリシヲ以テ当港内
 現今廣業商会所在ノ地船場町近傍一円 ニ鯡ノ群集スルコト夥ダシク豊漁ナル
コト連年加之若松町近海ハ遠浅ナル為メ蜊ノ生
ズルコト是亦夥多ニシテ十二三才ナル小児ニテ
モ半日ニ二斗樽ニ一ツ位ハ容易ニ収穫スルコト
ヲ得タリ殊ニ大根ハ頻年豊作ニシテ近村ハ勿
論市中ニテモ是ノミニテ性命ヲ維ケルモノア
リ蕨ノ根ハ山野到ル処土ヲ掘リテ之ヲ取リ団
子等ニ製シテ食用ニ充ツ亦大ニ飢餓ヲ支エタ

秋田津軽等ニテハ北海道ヘサエ行ケバ餓死ヲ

免ルルトテ船舶ノ下リ来ルモノアル毎ニ便船
ヲ乞フモノ多ク若シ船人ノ之ヲ謝絶スルアレ
帆影ヲ追フテ海ニ投シ為メニ溺死スルモノア
ルニ至ル因テ舟子モ止ヲ得ズ之ヲ乗船セシム
ルモ公然函館港ニ上陸セシムルヲ得ザルニ依
リ 蓋シ糧食欠乏ノ為メ一時飢民ノ渡航ヲ禁ジタルナラン 密カニ山背泊或ハ寒川等ヨリ
上陸セシメ而シテ船手ハ毫モ之ヲ知ラザルノ
状ヲ為シテ入港ス故ニ市民ハ飢民ノ何レヨリ
来ルヲ知ラズ各喫驚スルノミナリシガ追々食
ヲ戸前ニ乞フモノ増殖シ遂ニ飢ニ堪エズシテ
其門内ニ倒ルルニ至リケレバ市民ノ志アルモ
ノハ一日幾舛ト限リテ粥ヲ製シ之ヲ与エタリ
其人々ハ高田嘉兵衛 高田屋 藤野喜兵衛(又十)小林重吉

2)山田寿平■3)蛯子武兵衛■4)佐藤半兵衛■5)等ニ
シテ小林一家ニテハ一日米五舛ニ「ヲシメ」一舛
ヲ混シ粥トナシ毎朝一椀宛テ一人毎ニ与ヘタ
リ其人員ハ百六十三名ニシテ凡一ヶ年半ノ間
之ヲ救助セリ
其右追々少々宛米穀ノ輸入モアルニ随ヒ資力
アルモノハ幾俵ツツカノ米穀ヲ町会所ニ納シ
町会所ニテハ港内ノ貧民窮戸ヲ調査シテ之ヲ
割当セリ其他市民ノ内ニテモ年忌佛事等アル
毎ニハ僧ヲ迎ヘ佛ニ供スルヲ廃シ貧民一人毎
ニ米一舛銭二百位宛給与シ来レリ
現今区内共有物ノ一ナル「ヲシメ」昆布モ亦此時
代ノ蓄積ニ係ルモノナリ 其起原等ハ過般調査セル「ヲシメ」昆布ノ製
法用法等■シアレハ茲ニ之ヲ略ス

是ト同時ニ備荒貯蓄ノ議起ル即チ運上金ノ弐
歩金ナルモノヲ徴集シ金員ハ町会所ノ管理
スル所ニシテ貯穀ノ方法ハ先ツ今年新穀ヲ購
入シ翌年漁期ニ至リ場所受負人ソノ受負場所
エ積下スベキ新穀ヲ購入スルノ際前年ノ貯穀
ヲ以テ漁場ニ回漕シ受負人ノ購入セル新穀ヲ
バ蔵庫ニ貯ヘ如此輪転交換シ其舛減ハ一舛以
上ナレバ下渡シ一舛以下ハ受負人ヨリ冥加ト
シテ請取ラザルノ定メナリキ
此時代マデハ諸般ノ家具器物玩具等ヲ所持ス
ルモノ三港 函館福山江差 ニテ僅々二三家ニ過ギザリシニ
奥羽地方飢餓ヲ免ルルガ為メニ重代ノ器具等
ヲ売出セルモノト見ヘ是等ノ物品ヲ輸入スル

コト頗ル多ク其価モ亦非常ノ低廉ナリシ故ニ少
シク資産アルモノハ多少ニ限ラズ之ヲ購求セ
リ故ニ現今ノ豪商所有スル古器具類ハ多分其
時ニ得タルモノナリト云フ
元称名寺地内 現今富岡町弥生学校下ニ当ル辺ヲ云フ ニ南部津軽人等ノ餓死
シタル死屍ヲ一所ニ埋葬シタルコトアリト云フ
モノアリ即チ同寺ハ勿論他ノ寺院等ニ就キ調
査スルモ当時ノ書類散逸ノ為メ何分調査シ難
ク偶々過去帳ニ南部津軽人等一両名ノ戒名ア
リト雖トモ是等ハ餓死ノ為メ斃死シタルモノト
云フコトヲ得ザルナリ
以上ノ状況ニ因リテ考フルニ本港ノ如キハ航
海貿易ノ道早ク開ケ運輸ノ便ヲ得タルコト多ク

且当時金融活発ナルガ為メ南部津軽秋田地方 ノ如キ惨状ハ免レ得タルモノナラン歟

亀田上磯両郡役所調査

亀田郡椴法華村調査

   亀田上磯両郡役所調査
   亀田郡椴法華村調査
天保四 癸巳 年ハ諸国同様当村内壱人トシテ困難
セザルナシ或ハ「スダミ」 栃ノ実也 或ハ魚類ヲ食シタリ
ト云フ然レドモ幸ニ官ノ救助米ヲ得或ハ鱈昆布
等ノ漁業多ク為メニ露命ヲ繋キ終ニ相凌タル
モ両三人程餓死セシ由尤此時ハ米壱俵金弐両
弐分鱈一束 但三十本ナリ 銭七百文ニシテ金銭サヘ所持
スレバ差支ナカリシト云フ

同七 丙申 年ハ先年ヨリノ凶荒引続キニテ村内ノ
困難前ニ倍シ飢餓セザルモノナシ然レドモ前同
様鱈昆布等ノ収穫アリシヲ以テ米壱俵ト鱈廿
三束ト交換シテ相凌キ此時ニ当テハ壱人モ餓
死セシモノナシト雖トモ翌酉年ニ至リ霍乱病6)
行シテ多ク死セシモノアリシト云フ

仝郡尻岸内村

   仝郡尻岸内村
天保四 巳 年同七 申 年飢饉ノ如キニ至テハ老人
ノ心頭ニ不忘処ナリ就中四年ノ如キハ凶荒最
モ甚タシト云ヘリ当地方村民ハ悉ク漁樵ヲ以
テ業トシ其利ヲ以テ函館ヨリ米噌ヲ購求シ生
計ヲ営ミ居タリシ者ナレバ斯ク凶荒ニ遭遇シ

米穀ノ販路全ク絶シ衆庶一般困難セリト然レ
トモ戸口漁業者タルヲ以テ魚肉ヲ食トシ或ハ野
ニ出テ蕨根ヲ掘採シ製シテ食ニ充テ少モ餓死
ノ患ナカリシト故ニ内地ノ如キ餓死道路ニ横
ハリ父子相食ム如キノ惨状ヲ見サリシト云フ
此際ニ当テ南部地方ヨリ続々渡航セシ者アリ
漁業ヲ営ミ今尚残留セル者数多アリ是等ハ皆
内地ノ飢饉ニ因ミ渡航セシモノナリ依之推考
スルモ内地凶荒ノ被害大ナルヲ知ルヘシ以上
記スル処是亦旧記ノ存ズルナク老者ニ就キ傳
聞ノ概略ナリ

仝郡戸井小安両村

   仝郡戸井小安両村
天保四 巳 年同七 申 年凶荒ノ如キハ老人ノ覚知
スルヲ以テ其一端ヲ知ルヲ得天保四年ニハ凶
荒甚シト雖トモ米穀ノ販路全ク絶シコトナシト云
フ同七年ノ如キハ一層甚タシク米穀ノ販路絶
ヘタル由然レトモ当地方ノ村民ハ魚業ヲ以テ業
トシ村中過半ハ永年函館ヘ仕込方ヲ 約シ置キ
 方■■■ト云フ 夫ヘ取獲シタル海産物ヲ差送リ米噌其他
ノ需要品ノ仕込ヲ受ケ生計ヲ営ミ居リシ故飢
饉ノ節ハ村民互ニ持合ノ米噌ニテ給ベ合セ且
又官ヨリモ米ヲ拝借シ夫ヘ原野ニ生スル蕨ノ
根ヲ掘採リ製粉シ或ハ昆布カテ等ヲ交セ常食
トナシ且多ク魚肉ヲ食シ為メニ餓死シタルモ
ノナシ尤七年ニハ玄米四斗入壱俵弐両弐分ニ

売買セシト云フ

同郡石崎村

   同郡石崎村
天明飢饉
申傳ニ拠レハ天明ノ飢饉ニハ米粟麦等ノ糧渇
キ旧藩ノ扶助等モ既ニ絶ヘ殆ント死ニ無ント
スル時ニ際シ当村ノ人民山野ニ出テ雪中蕨ノ
根ヲ堀採リ氷ヲ割テ蕨ノ澱粉ヲ製シ各自食料
トシ春季ニ至リ山野ニ生スル蓬及野草ノ内食
用トナルベキ青葉ヲ採リ又海ニ入テハ若生ノ
昆布ヲ採リ川ニ浸シ晒シテ乾燥シ粉トナシ 方言之ヲ
「ヲシメ」ト云フ 是等ヲ蕨ノ粉ニ混和シテ熱湯ニテ練リ各
自食用トシ海面沖合ニハ海草若布昆布及魚ヲ

漁獲シテ食シ餘分ハ製出シテ販売シ糧ヲ求メ
終ニ露命ヲ繋キテ壱名ダモ餓死セシモノナカ
リシト
天保飢饉
天保年間モ同様ニテ人民一同シテ官米ヲ拝借
シ又祖父孫兵衛等窮民ヲ救助シ此際ハ南部津
軽地方ヨリ飢饉ニ迫リタル者数多渡来シ却テ
当地人民ノ救助ヲ得テ共ニ露命ヲ全フシタル
モノアリト是レ偏ニ当地方山野ニ蕨ノ多ク自
生スルニヨリ之ヲ採テ食ニ充テ飢饉ヲ免ルル
ヲ得タリ蕨ノ人民ノ益タル平年ニアリテハ春
季発生ノ際之ヲ採テ食シ凶歳ニアリテハ其根
ヲ堀リ飢ヲ医ス実ニ当地方救荒ノ最大一ナル
モノナリ希クハ之カ保護法ヲ設ケラレンコトヲ

同郡銭亀沢志苔亀尾三村

   同郡銭亀沢志苔亀尾三村
天保四年同七年共ニ被害甚タシク人民孰レモ
菜色ヲ帯フルノ景況ニテ天明年間同様野草海
藻等ニヨリ漸ク助命シ其難渋一方ナラザル折
柄南部津軽地方ノ被害者等一時救助ヲ乞フモ
ノ陸続渡航シ為メニ彼我益艱難ヲ増シシカモ
幸ヒ官ノ拝借米ヲ仰キ傍ラ有志者ノ救助等ニ
頼リ一人モ餓死セシモノナカリシ

同郡上湯川根崎下湯川三村

   同郡上湯川根崎下湯川三村
天保年間凶荒ノ景況ハ奥羽地方大ニ害ヲ被リ
当地方ハ格別ノ害ナシト雖トモ貧窮者ハ大ニ困
難ヲ極メタレトモ餓死ノ者ハナカリシト云フ時
ノ食料ニハ蕨ノ根葛ノ根昆布或ハ雑草ノ内食
用ニ供シテ障害ナキモノ等ヲ食シ漸ク生命ヲ
保チシト云フ米ノ売買ナキニアラザレトモ水産
物或ハ野菜等ノ売捌ケザルヨリ米ヲ買フコト能
ハス且米モ一舛ニ付最低価ハ銭三百文最高価
ハ金一両程ナリシト云フ海産物ノ内折昆布売
買アルモ一把 八百五十匁 ニ付二十五文ナリシト云フ
此外旧記ノ存スルナク唯老人ニ就キ聞取シ廉
々如斯

同郡亀田神山鍛冶三村

   同郡亀田神山鍛冶三村
天保年間ノ凶荒聞ク処ニ拠レハ同三年辰ノ春
雪多ク解雪ノ遅キカ為メ牛馬飼料ノ秣不足シ
野菜穀物凶作同四年巳ノ二月沓潮ヨリ米穀ノ
価追々騰貴シ九月ニ至リ白米一俵 四斗入 金一両十
月ヨリ米及酒ノ売買止ミ人民大ニ苦ミ藩ヨリ
一人ニ付米三舛索麺一把価四百文宛ニテ拂下
アリ又鍛冶村ニテ十日間家一軒ニ付米三舛五
合但一舛ニ付百三十五文ニテ拂下アリ五月旱
ノ為メ野菜穀物種ナシ小麦一俵一両一分大豆
一舛百五拾文蕨ノ花 澱粉 壱舛三百五拾文大坂酒
壱樽四両越後酒同二両糯米壱俵三両迄ニ騰貴

シ人民ノ困苦限リナシ依之藩庁ヨリ直下ケノ
達アリ
同五年春ヨリ夏ニ至リ東風 ヤマセ 雨多ク土用過キ
旱シ亀田川水不足七八両月大風雨此年始メテ
積穀ノ達シアリ
同六年春旱寒気甚シク強風大雪ニテ三月下旬
解雪ノ色ナク秣不足ニシテ馬大ニ斃ル六月初
メ西風吹キ続キ穀物野菜モノ種ナシ九月ヨリ
米売買止ミ斗リ米一軒ニ付五舛ツツ
同七 申 年春ヨリ夏ニ至テ寒ク近年稀ナルコトニ
テ野菜種子高価人参種子一杯 二合五勺 六百文茄子種
子一ツ四百五十文大根種子一舛金二分七月中
東風吹キ寒気寒中ノ如シ八月中旬茄子玉子ノ

如キモノヲ見ル南部津軽船止メニテ米売買ナ
シ故ニ老若男女近傍山々ニ出テ蕨ヲ堀リ採リ
 今神山村地内ツヅミ向辺ナリ 食物トス九月足軽在々エ出蕨掘被命
十一月廿日大雪ノ為メ蕨ヲ掘ル不能人民飢餓
此時米一俵価二両越後酒一樽一両一分ナリ官
ヨリ御救トシテ一人ニ付米三舛宛下与
同八 酉 年兎角雪多ク此年ノ食物ハ大根蕎麦稗
等ヲ交セ食シ家業蕨掘リノ外ナシ米ハ一舛ニ
付三百三十文小豆一舛二百文醤油一杯百文酢
同百四十文位ナリシ此年モ官ヨリ救助アリ人
民大ニ助カリシト
以上述ブルカ如ク天保三年ヨリ同八年迄六ヶ
年間気候不順作物不熟打続キタル故翌九年大

飢饉ニテ近国ニ於テ餓死ノモノアリシ由然レ
トモ亀田鍛冶神山村等ニ於テハ雑穀モ少クアリ
且近山ニ蕨多クアリシ故幸ニ餓死ヲ免レシト
云フ

同郡桔梗赤川大中山石川四村

   同郡桔梗赤川大中山石川四村
天保四年ハ夏降雨打続キ東風 ヤマセ 吹キ炎暑ノ候
ト雖モ単物ニテハ凌キ兼ヌル程ノ気候ニテ穀
類ノ内麦ハ並作ニテ大小豆粟稗ノ類ハ結実セ
ス 当時ハ米作及馬鈴薯ノ作ナシ 秋比ニ至リ食物欠乏シ糊口一方ナ
ラサル困難ニ及ヒ老若男女ノ別ナク日毎ニ山
野ニ出テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ食用ニ充ツ其他雑

草等苦味ヲ帯ヒサルモノ及有毒ノモノヲ除ク
ノ外ハ食用ニ供セサルナキニ至レリ然レトモ幸
ニ餓死ヲ免レ終ニ生存スルヲ得タリト
同五年ハ穀物等並作ニテ飢餲ニ窘ムノ患ナカ
リシ由
同六年七年ハ東風降雨打続キ夏中暑気ヲ覚ヘ
ス麦作ヲ除クノ外ハ穀類豊熟セス人々蕨ノ根
等ニテ漸ク生命ヲ保チ前四年ノ凶荒ニ比シ一
層惨状ヲ呈シタリ然トモ天然草ノ饒多ナルヲ以
テ幸ニ餓死スルモノナカリシト
同八年ハ作物半作位ニテ人々食ニ飽クノ歓楽
ナシト雖トモ猶蘇生ノ思ヲナシ家業ニ従事スル
ヲ得タリ

函館ニ於テ他道ノ輸入穀ナキヲ以テ販売セス
六年七年ノ間ハ殆ント米飯ノ味ヲ忘レタルモ
ノノ如シト云フ

同郡七飯鶴野藤城峠下軍川五村

   同郡七飯鶴野藤城峠下軍川五村
天保年間ノ飢饉モ書類無之然レトモ其凶荒ニ遭
遇セシモノニ就テ之ヲ質スニ当時水田未タ開
ケス多クハ畑ニシテ麦大豆稗粟ノ類ノミ耕作
セリ然ルニ其飢饉ノ年ニ当テ成熟セシモノハ
稗ノミニシテ其他ノ作物ハ穂ヲ抽クモ稔ラス
悉ク秕ノミ蔬菜ノ如キモ亦不作ナリ如斯モノ
数年故ニ人民ハ皆夏秋ノ候ハ蕨欵冬7)等ヲ食ニ

充テ将ニ冬季ニ至ラントスルニ先チ蕨ノ根或
ハ葛ノ根塊ヲ堀採リ土中ニ埋蔵シ漸次澱粉ニ
製シ或ハ其糟粕ヲ魚肉ト混煮シテ冬春二季ノ
常食トナシ終ニ生命ヲ保チ得タレトモ旅人ノ路
傍ニ餓死スルモノ少ナカラザリシト云夏作物
ノ稔ラザリシハ気候不順ニシテ夏季ト雖トモ尚
寒ク秋季ニ至リ将ニ熟セントスルニ当リ霜己
ニ置キ為メニ枯死シテ稔ラス此際人民ノ終ニ
穀物ヲ得ルモノハ唯官ヨリ一戸 凡五人平均位ノ割合 ニ付一
ヶ月白米三舛ヲ限リ相当代価ニテ拂下ラレタ
ルヲ以テナリト云フ

同郡大野一渡本郷文月千代田一本木六村

   同郡大野一渡本郷文月千代田
   一本木六村
天保四及七両年ノ凶荒ハ第一気候不順ニシテ
日々風雨寒気甚タシク就中東風北風最モ害ヲ
ナセリ作物ハ当時多ク蕎麦大小豆粟麦其他馬
鈴薯ノミニテ水田モ多少アリシカトモ只稗ヲ植
付シ迄ニテ皆不熟ナリシ右ノ景況故当地人民
ハ勿論近接ノ漁夫ニ至迄当村エ来リ字向野観
音山ニ於テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ澱粉ヲ製シ又ハ
「シダメ」杯8)ヲ拾ヒ各冬期ニ際シ渓澗ノ枯蕗等ヲ
取リ之ヲ食シ終ニ生命ヲ保チシ其際ニ関東奥
羽地方ヨリ当道ヘ渡航シ一時口糊ヲ凌キタル
モノ幾千ナルヤ知ルヘカラス実ニ当時の景況

名状スベカラザルノ惨状ナリシ然レトモ幸ニ道
路ニ餓死スルモノハ知ラザリシ旨老夫ヨリ傳
聞セリ但当時ノ戸口ハ概略左ノ如シ
  大野村戸数凡六七十戸人口三百二三十人
  本郷村戸数凡二三戸 人口十二三人
  一渡村戸数凡二十三戸人口百十四五人
  千代田村戸数七戸  人口三十四五人
  一本木村戸数六七戸 人口三十四五人
  文月村戸数 六七戸 人口三十八九人

上磯郡上磯谷好清川冨川中野五村

   上磯郡上磯谷好清川冨川中野五村
天保四年同七年ノ凶荒ノ如キモ亦記事ナシ之
ヲ古老ニ質スルニ其口話曰ク天保度ノ飢饉ハ
当道ト雖トモ内地ト異ナラサルモノノ如シ然レ
トモ当道ハ幸ニ海運ノ便ナルト海産物及山野自
生ノ菓草々根ノ食飼ニ充ツヘキ物ニ富ムヲ以
テ仮令米価ノ貴キモ内地邉陬ノ困難トハ大ニ
異ナル所アリト思量シタリト然レトモ当村中々
等以下ノ者ハ皆他ノ業務ヲ■チ挙家日々山野
海浜ニ出テ草根菜茎若クハ海藻ヲ採収シ是レ
ニ十分ノ一二米稗ヲ混合シテ食シ飢ヲ凌クニ
汲々セリト云フ斯ル凶荒ナルモ内地ヨリハ餘
裕ナル所アルカ別ケテ南部津軽地方ヨリ其飢
餓ヲ救治センカ為メ老幼ヲ携ヘ当地エ来往ス
ルモノ夥多ナリシト云フ

同郡茂辺地村

   同郡茂辺地村

   同郡茂辺地村
天保年間ノ飢饉タル全邦一般ニシテ就中関東
奥羽ノ地方被害尤モ甚タシク其影響当地方ニ
波及シ人民大ニ困難セシトテ今古老ノ説示ス
ル処ナリ其談話ニ就キ当時ノ景状ヲ陳レバ則
元来村民ノ主眼トスル業利ハ山海ノ別ナク悉
ク天産ニ頼ラサルハナシ彼ノ犂耕ノ業ノ如キ
ハ概ネ婦女子ノ閑時ニ委ネ其穫ル処ノモノハ
終ニ蔬菜ノ類ニ過キズ故ニ日常欠クヘカラザ
ル米穀ノ如キハ皆内地諸国ノ輸入ヲ仰キ得ル
処ノ金銭ヲ以テ之ヲ購ヒ 重ニ函館ニ於テ 以テ生活セルモ

ノナリ然ルニ此年ノ凶荒ハ日頃当道人民ノ最
モ其輸入ヲ頼ム処ノ加越奥羽ニ甚シク為メニ
一時ハ殆ント一糧穀ノ輸入ヲ見サリシカ幸ニ
地位海運ニ便ナルカ故爰ニ利欲ノ商起リ北国
凶荒ナリト知レバ遠ク九州ノ米ヲ輸シ巨利ヲ
得ルモノ尠カラス故ニ函館ノ市街ニハ左ノミ
其乏キヲ知ラサル程ナリシト当村ノ如キハ之
ヲ距ルコト終カニ数里ノ内ニアレバ大ニ幸福
ナルカ如シト雖トモ如何セン其価極メテ貴ク始メ
天保三年ニアリテハ白米壱俵ノ価二貫五百文
内外ナリシニ僅々一年間ヲ経テ拾弐貫文以上
ニ騰貴シ而モ尚コレニ止マラサルカ如シ故ニ
之ヲ購フノ財ナク僅カニ数里内ノ累穀モ徒ニ

天外ノ宝庫ト望ミ村民ノ飢餓当ニ旦夕ニ迫ラ
ントス其苦難タル実ニ名状スベカラザルニ至
レリ此ニ於テ各自営ム処ノ業ヲ棄テ唯食物ヲ
求ムルニ汲々タリ然ルニ当地方ハ幸ニ海ニ面
シ山ヲ負フ故ニ海ニ入テハ昆布「ヒジキ」等ノ海
藻ヲ獲シ山野ニ出テハ「ウバユリ」蕨ノ根ヲ採リ
以テ生命ヲ全フスルニ至レリ就中昆布ハ最モ
多量ノ天産ニシテ是ヲ製シテ「オシメ」ト称ヘ豫
テ凶荒ニ備ヘシカ当時大ニ効用シ時ノ藩主松
前氏大ニ之ヲ賞賛シ盛ニ之ヲ製セシメ部下ノ
庶民ニ分與セラル又耕作ニ至テハ馬鈴薯能ク
豊熟シ村民ノ生命ハ之レニ依テ得シト思ハル
ル程ナリ右ノ品類ハ当地方ノ風土気候ニ最適

ノモノニテ他道人民ノ羨ム処アラン故ニ天保
四五年ノ頃ヨリ南部津軽ノ人民隣村当別ヘ渡
航シ其何地ヘ行ヤ知ラス雖トモ当村ヲ通行ス
ルモノ幾百人ナルヲ知ラス是皆該地方ノ飢民
ニシテ当道ノ天富ヲ傳聞キ生命ヲ保タンカ為
メニ来ルモノト云フ依之熟考スルニ村民ノ困
難セシハ決シテ僅少ノコトニアラスト雖トモ奥羽
地方ノ惨状ノ如キハ当村民ノ感知セサル処ナ
ラン此凶荒ハ天保四年ニ始リ其後内地ノ消息
ニ依テ少シク安ンセシモ七八両年ニ至リ前ニ
倍スルノ凶歎ノ余響ヲ被リ其安全ニ帰セシハ
実ニ天保十年ニシテ被害殆ント七年ノ永キニ
亘レリト

 「オシメ」昆布ノ義官報第百七拾七号9)ニハ天保
 年間ニ昉リタルモノノ如シ云々ト有之然ルニ
 此調書ニ「オシメ」ト称ヘ豫テ凶荒ニ備ヘシカ
 当時大ニ効用アリ時ノ藩主云々記載アルニ付
 其製造ヲ発明セシモノノ氏名及該昆布ノ濫
 觴旧記若シクハ古老ノ口碑等詳細ノコトヲ質
 問セシニ左ノ回報アリ因テ此ニ併記ス
「オシメ」昆布ノ天保ノ凶年ニ際シ効ヲ当道ニ傳
セシハ既ニ世人ノ知ル処ナリ然レトモコレカ製
方ヲ発明セシ者及何年ノ頃何地ニ於テ始メテ
行レシヤ探知シガタシ想フニ土人ノ製ニ始リ
シヲ漸次改良シタルモノナラン官報第百七拾
七号ニ拠レハ該昆布ノ食料ニ供セシハ天保年

中ニ昉リタルモノノ如シトアレトモ決シテ然ラ
ス只此際ニ最モ効ヲ著シタルモノナリ今現ニ
八拾歳ノ老人ニシテ其小児タリシトキ之ヲ食セ
シコトアリ往時ハ航運完カラスシテ米穀為メニ
貴ク常ニ食スルニ難シ依テ其幾分ヲ「オシメ」ニ
テ補ヒ只々凶荒ヲ救フニノミ止マラサリシナ
リト此言固トニ信スヘキモノナリ
又同官報ニ之ヲ発明セシハ天保ノ凶年ニ際シ
箱館町會所ノ吏員等百方商議ノ上ナリトアレ
トモ上ニ述ルカ如クニシテ此説信シガタシ此時
ニ当テ町會所ハ藩庁ノ一課局ノ如シ藩庁ヨリ
庶民ニ諭シテ曰ク今ヤ凶荒ノ災ニ罹レリ宜ク
「オシメ」ノ製造ヲ勉メヨト今ニ古老ノ記憶スル

処ニシテ当時藩吏等特ニ之カ製造及儲蓄方ヲ
勧奨セシモノナラン其製造方法ノ如キハ官報
ニ詳記アルヲ以テ之ヲ贅セス

同郡石別釜谷両村

   同郡石別釜谷両村
天保年間ノ飢饉モ現時ノ景況ヲ記シタル書類
ナシ只当時其難ニ遭遇セシ老人ノ説ニ拠レハ
天保四 巳 年内地諸国凶作ニテ衆庶困難飢ヲ呼
フノ歎声止マサルトハ春ノ頃ヨリ傳聞スレトモ
当地方ニハ未タ其影響ヲ及ボサス且人民モ更
ニ意トセス既ニシテ同年六月ニ至リ漸々地方
ニ波及シ米穀ハ俄然騰貴シ玄米壱俵(四斗入)金三両

二分ニ至リ細民ノ如キハ日々飯米ニ苦ムノ場
合トナレリ然レトモ米穀売買ノ途絶ヘサルヲ以
テ左マテ焦慮セスタトヘ内地凶作ト雖トモ必ス
輸入米アラントノ豫想ヨリ荏苒日ヲ経過スル
ニ随ヒ米穀ハ日一日缼乏シ同八月ニ至テハ米
穀売買ノ途絶ヘ餓孚旦夕ニ迫ルニ及ンテ驚歎
為ス処ヲ知ラス東走西馳穀ヲ求ムレトモ奈何セ
ン時已に遅ク米商ハ売買ヲ拒絶シ聊カ米穀ヲ
所持スル懇親ノ者ト雖モ自家ノ飯料ニ過キス
一家ノ飢餓ヲ慮リ貸与売買スルモノナク其困
難名状スヘカラス折柄函館ニ旧松前藩廳ノ派
出所アリテ同所ニ於テ飢民老若男女ヲ問ハス
遠近ニ論ナク救米ヲ請求スルモノニハ玄米三

合宛払下ラルルト聞キ欣然トシテ該地ニ至リ
救米払下ヲ請願シ且遠近ノ(六里余)モノナルヲ以
テ一週日或ハ十日分ノ払下ヲ歎願スレトモ許サ
レス一日分ヅツ各自ニ払下ラレタリ於是救助
米ヲ買ハント欲スレハ挙家日々六里余ノ遠路
ヲ往復セサルヲ得ス之ラ強壮ノ男子ト雖トモ能
ハサル処況ンヤ老幼婦女子ニ於テヤ海路ヲ取
ランカ風雨ノ障碍アリテ日々通航スル能ハス
前日ノ欠ハ只一時ノコトニシテ困難漸次甚シク
座シテ餓死ヲ待ツヨリ外ナキニ至レリ然ルニ
地方山野抵ル処蕨草ノ生セサルナク且此年ハ
海魚ノ多キ例年ノ比ニアラス故ヲ以テ村民等
断然草根及魚類ヲ以テ生命ヲ保持セント決シ

各挙テ蕨ノ根ヲ堀リ澱粉ヲ製シ海魚ヲ漁シ以
テ生命ヲ繋キシニ藩主松前家ヨリ村落戸数ニ
応シ救米ヲ貸与セラル其米ヲ受ケタルハ旧当
別村戸数三十六戸ニテ玄米四拾俵旧三石村戸
数十三戸ニテ同廿俵釜谷村廿四戸ニテ同三拾
俵之ヲ更ニ人口ニ應シテ配分シタルヲ以テ飢
民一時蘇生ノ思ヲナシ各自堀採ノ蕨粉ニ和
シテ食セリ又豆作ノ稍可ナルヲ以テ之ヲ蕨粉
ニ和シ食ニ充ルヲ得タリ然レトモ食塩ノ外ハ味
噌醤油ノナキヲ以テ魚類其他共総テ塩ノミヲ
用タリ冬季ニ至テハ幸ニ積雪薄ク為メニ蕨ノ
根ヲ堀採ルコトヲ得タリト雖トモ各衣食不充分ニ
シテ寒風降雪ヲ冒シテ掘採ニ従事シ洗■ニ製

造ニ其労苦艱難現ニ其辛苦ヲ嘗メタルモノニ
アラサレバ神魂ニ徹セサルベシ地方人民餓死
ヲ免ルルヲ得タルハ蕨ノ多キト積雪ノ薄キト
ノ天恵ニ因テナリ同七年申年ノ凶荒ハ米穀高直
ナレトモ売買ノ道絶ヘサルト各自前年ノ困難ヲ
忘レサルヲ以テ大ニ戒心スル処アルヲ以テ稍
困苦薄カリシト云フ

同郡札苅泉澤木古内三村

   同郡札苅泉澤木古内三村
天保四巳年同七申年凶荒ノ如キニ至テハ老人
ノ心頭ニ覚知スルヲ以テ其一端ヲ知ルヲ得就
中天保四年ノ如キハ凶荒最モ甚タシト云ヘリ

当地方村民ノ如キ悉ク漁樵ヲ以テ業トシ其利
ヲ以テ函館ヨリ米噌ヲ購求シ生計ヲ営ミ居タ
リシ者ナレハ斯ク凶荒ニ遭遇シ米穀ノ販路全
ク絶ヘ衆庶一般困難セリト然レトモ戸口漁業者
タルヲ以テ魚肉ヲ食トシ或ハ野ニ出テ蕨根ヲ
堀採リ製シテ此ヲ食ニ充テ少シモ餓死ノ患ナ
カリシト故ニ内地ノ如キ餓孚通路ニ横ハリ父
子相食ム如キノ惨状ヲ見ズト云フ此際青森地
方ヨリ続々渡航セシ人アリテ漁業ヲ営ミ後土
着移住今尚残留セルモノ数多アリ是等ハ内地
ノ飢饉ニ因ミ渡航セシモノナリ依之推考スル
モ内地凶荒ノ被害大ナル知ルヘシ以上記スル
処是亦旧記ノ存スルナク詳細ノ景況探知ニ由

ナシ只古老ノ申傳概略如斯

同郡知内小谷石両村

   同郡知内小谷石両村
天保年間ノ凶荒ノ時ハ旧松前藩主ヨリ一日壱
人ニ付米一合ツツノ積ヲ以テ月々三度ツツ拂
下アリ依之蕨並葛ノ根ヲ堀採搗砕シ汁ヲ取リ
又イゲマ 方言但蘿蔔10)ニ似タリ ヲ堀採リ灰水ニテ煮テ搗砕キ
汁ヲ取リ桶ニ入レ水ヲ清シ濃キ処ヲ取リ穀類
ニ混和シテ食シ 多ク食スレハ腫病ヲ煩フ 又楢ノ実ヲ同上製シテ
食シモアリ其外馬鈴薯蘿蔔等ハ相応ノ作ニテ
右等ヲ以テ助命シ餓死壱人モナカリシヨシナ

亀田郡長 片岡新殿 亀田郡戸井村 戸長 飯田東一郎

亀田郡長 片岡新殿   亀田郡戸井村 戸長 飯田東一郎

勧第百九拾四号及御口達モ有之候「ヲシメ」昆布
食用発明シタル人名及年数等可成尤取調之議
被仰候得共旧記存スル者無之故ニ詳細事実探
知スル不能ハス依之当小安村支瀬田来二十九
番地平民小柳新右エ門当九十三年成ル古老ニ
拠リ発明ノ年数ヲ聞問スルニ何レノ頃ヨリ食
スルヤ不明然レ共新右エ門親タル者六十年ヲ
過テ死シ後最早当今五拾余年ニ至ル右新右エ

門幼年ノ節親ヨリ聞傳ヒニ者祖父ノ頃ヨリ「ヲ
シメ」ヲ食シタリト左シレハ三代ニテ凡ソ二百
年前ヨリ食シタルナラント申事ニ有之而己ニ
テ事実探知スルニ由ナシ仍テ「ヲシメ」製造法ハ
別紙ニ詳細取調御回致申進候也

ヲシメ昆布製造法詳細昼

   ヲシメ昆布製造法詳細昼
一 ヲシメ製造ニハ昆布ノ若生(方言早前ト云フ)ヲ砂上エ散
  シ天日ニテ能ク干シタル上流川ヘ入壱■日
  モ晒置白色ニナレハ天日ニテ干シ夫ヲ又タ
  「セーロウ」ヘ入火ニテ能ク乾キタル上臼ニテ
  細末ニシ「フルイ」ニテ卸シ而シテ其細末ヲ又
  タ湯煎ヲシテ能々清水ニテ洗ヒ後直ク天日
  ニテ干揚ケ貯蓄スルナリ右ノ如ク製造シ可
  成水気ヲ不受様貯蓄スル時ハ百年ヲ過ルモ
  斐テ変スル事ナシト云フ
一 ヲシメ製造スル期節者春中尤モヨロシ雪中
  ニテ干揚ケノ昆布雪上ヘ散シ置ケハ自カラ
  白色トナル故是又前同様製造シテ可ナリ

一 食用ニ儲ヘタル昆布夏分事ニ拠リカビ或ハ
  赤色ヲ帯ヒル事アリ決シテ捨ル事ナカレ之
  カ「ヲシメ」ニ極宜シ如何ンソト云フニ川又ハ
  雪ニテ晒ス時ハ通常ノ昆布ヨリ白ク成ル事
  甚タ早シ「ヲシメ」ニシテ味ニ別ナシ
一 ヲシメ食スル時ハ粟稗ヲ米江入テカデニス
  ルモ同様ノタキ方ナリ

ヲシメ昆布取調ノ議ニ付復命

   ヲシメ昆布取調ノ議ニ付復命
亀田郡志苔村以東尻岸内村支根田内ニ至ル地
方ニテハ今ヲ距ルニ十年以前頃マテハオシメ
則チ糧昆布ト称ヘ唯リ凶歳飢饉ノミナラス毎
村小民ハ平常雑飯トナシテ食用シタリ今現ニ
七八十歳ノ老夫幼少ノトキ(文間年間ノ頃)喰セシ
モノ多ク其謂所ニ拠レハ尚夫ヨリ数十年以前
ヨリアリシモノニテ其起因ハ詳カニスル能ハ
サレ共必ス百年(天明年間)以来ノモノニハ非ル
可シト而シテ其雑飯敢テ喰ヒ悪シキモノニア
ラス蘿蔔飯及粟飯等ヨリハ遥カニ喰ヒ易クシ
テ養分モ亦幾ハクカ多キ様思ハルト銭亀沢村
某ナルモノハ曽テ米穀遺亡ノ節ヲシメ昆布ト

砂糖トノ二品ノミヲ以テ六十日間食用トシ其
間断テ一粒ノ米穀ヲ食セスシテ飢ヲ凌キシコト
アリ然レトモ胃弱ノモノハ或ハ少シク不消化ノ
憂ナキヲ得スト現今猶石崎小安戸井等ノ数ヶ
村ニハ一二俵ノヲシメ昆布ヲ貯蔵スルモノ数
戸アリ然ルニ十四五年以来一般之ヲ食スルモ
ノ無ニ至リシハ米穀運漕ノ便宜ヲ得シト漸次
畑作等ノ出来セシト又人民一般粗食セサリシ
風ニ至リシトニヨルナラン其製造ト煮炊法ト
ハ(農商務省ノ報告ニ在リシモノト略曰シケレ
バ略ス)旧生新生ヲ問ハス海浜ニ流遺シタル屑
昆布ニシテ自然雨露ニ曝白シタルモノハ其侭
之ヲ乾燥シ然ラサルモハ之ヲ四五日間水ニ浸

シテ後之ヲ乾燥ス■クスル故ハ昆布ノ■質ヲ
除去シ枯稿ナラシムル為ナリ然ル後之ヲ細末
トナシ或ハ乾燥昆布ノ侭之ヲ貯蔵ス然スルトキ
ハ幾十年ヲ経ルモ決シテ腐敗スルコトナク其年
数ヲ経ル多キ程昆布ノ嗅味ヲ脱シテ雑飯トナシ
食シ易シ若シ旧生昆布ノ固クシテ煮ヘ難キ
モノアルトキハ梅干一二個ヲ加ヘテ之ヲ煮レハ
忽チ柔軟ノモノトナレリト是其理ヲ究メスシ
テ為ス処ナレトモ自然作用ノ妙ト云ベキナリ近
年ニ至リテハ断テ之ヲ製造スルモノナシトイ
ヘトモ海産地方ニ在テ人余テ之ヲ製シ凶荒ニ備
ヘ置カハ其労費少フシテ効益ヲ得ルコト必ス大
ナル可キヲ知ル未タ飢饉ノ至ラサルニ先チ之

カ儲ケヲ為スニ若カサルヘシ右取調候処聞取
候尽復命致シ候也

茅部山越両郡役■調飢饉ノ状況取調

   茅部山越両郡役■調飢饉ノ状況取調
天保四癸巳年ハ気候不順蔬菜熟セス些少取穫ア
リシハ馬鈴薯ノミ為メニ沿道魚類海藻或ハ山
野自生ノ蕨根姥百合ヲ掘テ澱粉ヲ食シ又ハ楢
樹ノ実ヲ拾ヒ食ニ充テ辛ラク飢餓ヲ免レタリ
当時村役ノモノソノ実況領主松前家ヘ具申シ
各村ヘ米穀貸與アリシト云フ 砂原村百石掛澗村二十五石其他ノ村落石数不詳 尾
札部村名主飯田與五左エ門ハ玄米壱斗ツツ臼
尻村名主小川幸吉始メ同村重■ヨリモ白米壱
斗位ツツ同村土人ヘ救與シタリト云フ(戸数石数不詳)
天保七丙申年ハ四年ヨリ引続キ不作米価騰貴
細民ニ至ツテハ容易ニ食スル能ハス蕨根ノ如

キモ近辺ハ頻年堀尽シ老者ニ至テハ遠ク出テ
稼クヲ得ス大ニ困難ヲ極メタリト雖モ松前家
ヨリ多少ノ救助米ヲ出シ為メニ道路ニ餓死ス
ルノ惨状ハ一人モナカリシト云フ天保四年米
価壱俵(四斗入)銭拾七貫文同七年ハ壱俵三拾貫文ナ
リシト云ヘリ
山越郡山越内長万部ノ二村ハ弘化年間ヨリ内
地人ノ移住ニカカリ其以前ハ土人ノミニシテ
茅部郡ト同シク旧記ノ■徴スヘキモノナシト
雖トモ敢テ飢饉ノ影響ハナカリシト云フ
一山越内村ニ松田武左エ門ナルモノアリ 文政五年壬午六月
生明治十七年七月六十一年一ヶ月 嘉永二年中陸奥国南津軽郡碇ケ関村
ニ一宿セシニ人家破壊殆ント無人ノ如ク寂寞
究マレリ怪ミ問フニ去ル弘化二乙巳ノ年飢饉
ニ罹リ全村戸数三十三僅カ三戸ヲ残シ三十戸
ハ悉ク餓死離散セリトソノ惨状謂フニ忍サル
アリト実ニ今ヲ距ル三十六年同人記憶ニヨル
モノナリ

大沢村外三ヶ村戸長調査

   大沢村外三ヶ村戸長調査
一炭焼沢村及荒谷村天保年間ノ飢饉ノ景況当
時七十年已上ノモノエ夫々聞尋候処炭焼沢村
ハ其頃戸数四十戸程ニ有之天保四巳年ノ飢饉
ハ十月頃ヨリ翌春ニ至リ売米無之大ニ困難
致候得共福山ニテ日々粥ヲ焚出シ毎朝貰受候
趣一同之食事ハ日々粥ヘヨモギ大根昆布等ノ
カテヲ交漁業ニ出ルニモ重ニ食シ且蕨根
及クゾウ堀収交者モ多分有之内地ヨリハ別ニ
多人数渡海候議無之候得共親類縁行ヲ尋来リ
候モノ有之候由ニ候得共多人数ニモ無之由荒
谷村ニ於テハ其頃当道奥地ヘ鯡取商売買ト唱

ヒ相応ノモノ四五軒有之多分右等ノ世話ニテ
大ニ困難致シ候モノ無之候得共食スル物ハ炭
焼沢村同様種々ノカテヲ相用ヒ候由概略ニシ
テ委敷心得候者モ無之書類等ハ何レノ村方モ
無之

松前馬形上町平民能谷安五郎申出

   松前馬形上町平民能谷安五郎申出
一、天保四巳年ヨリ引続向七ヶ年不作ノ上大飢
  饉
一、津軽南部秋田表ニテ大飢饉非常ノ死亡夥敷
  当国ニハ死亡無之
一、前同国ヨリ松前ニ男女夥敷渡来ル依テ旧松
  前家ヨリ一人ニ付米一舛銭弐百文ツツヲ給
  与ノ上向地ヘ差戻ニ相成右飢饉ニ付当国ニ
  テハヲシメ昆布干シ又ゝバ大根等ヲ食糧ス
  巳年ヨリ二三年過十二月中又十手舩住吉丸
  舩々通路差止リ居候処始テ肥後米積来ル

一、右飢饉ニ付西浜請負人■■ノモノヨリ小前
  ノ百姓共ヘ札米トシテ一人ニ付米三合ツツ
  ヲ売拂

村山傳兵衛事蹟ノ内

   村山傳兵衛事蹟ノ内
天保四巳年飢饉ノ際糊口スル能ハサル窮民ヘ
米粥一石焚出自宅ニ於テ救助既ニ三百余日ニ
及ベリ

岩田金蔵事蹟ノ内

   岩田金蔵事蹟ノ内
天保五午年奥羽両国非常ノ凶歳ニ際シ当市街

並函館江差在々小前困難ニ際シ米廉価ヲ以テ
相拂外ニ玄米四斗入五十俵救助内ヘ差出
同七年再度ノ凶歳ニ付奥羽飢饉市街小民菜色
有之ニ付直安米及救助米三十五俵昆布三叺食
料ノ内ヘ差出

藤野伊兵衛同上

   藤野伊兵衛同上
天保四巳年内地凶作ニテ輸入米不足市在ノ難
渋傍観スルニ不忍九月七日手舩住吉丸差向候
処同廿五日馬関ヘ着米千七百俵買積十月廿二
日帰着二見丸ハ函館ヨリ出帆是又馬関ニテ米
千八百俵買入九月三十日函館ヘ着両艘積収米

松前函館両所ノ中等ノ族ヘハ時相場一匁下ケ
右以下ノ族ヘハ元直段ヲ以テ売捌段ニ付為右
覚松前侯ヨリ法眼永叔筆三副對掛物下賜ル

松前新荒町士族田村宇右エ門申出

   松前新荒町士族田村宇右エ門申出
一、天保度ノ不作ハ凡ソ六七年ノ間ナルベシ同
  四年七年ハ大飢饉尤松前地方ハ入米不足ス
  ルモ内地ノ如キ斃ルルモノナシ内地ヨリ来
  ルモノヘハ夫々救助有之曰ク蔵ヘ入松前家
  ヨリ右掛リノモノ被申付手当等遣シ帰国為
  致市中重立ノモノヨリ市在ヘ粥焚出等施行
  アリ当地米価一俵ニ付五円程ト聞ク

一、藩士ヘハ定例之扶持米ノ外ニ昆布一人ニ付
  壱舛ツツヲ添被相渡其他市在ヘモ夫々救助
  セリ
一、天保七年秋主用ニテ出府被申付此年最モ大
  飢饉南津ハ格別困難ノ様子ニ付秋田街道通
  行可致旨達ヲ受当地ニテ米其他食用物用意
  方夫々上ヨリ御世話アリ三厩ヘ渡海ノ処同
  所ハ格別ナル事ナシ平館ニ至リ最早人足ニ
  出ルモノナク浜辺或ハ野合等ニ斃ルルモノ
  アリ青森野辺地ノ辺モ同様ノ趣ニ付平館ヨ
  リ黒石ヘ越碇ヶ関マテノ間意外ノ事ニシテ
  実ニ絶言訣牛馬ハ皆食用物トアリ人ノ有ル
  家ハ甚タ稀ナリ往来ニ斃ルルモノ数ヲ不知

  実ニ鼻ヲ覆程ニ有之食物ハ当地ヨリ用意ノ
  モノヲ食ス秋田大館ヨリ先■上辺ニ至リ候
  処諸色ハ高価ナレトモ碇ヶ関辺ト違ヒ左程
  ノ議モ無之先食用物ニハ差支ナク夫ヨリ江
  戸マテハ同様ナリ

江差片原町平民伊藤甚五兵衛 今年八十三歳 ナルモノノ口碑

   江差片原町平民伊藤甚五兵衛 今年八十三歳
   ナルモノノ口碑
天保四年早春ヨリ江差ヘハ米穀ノ輸入ハ類年
ヨリ相減シ漁業モ現今ノ如ク盛ンナラサルモ
鯡漁業 二郡内ハ■■ノミ ニ着手アリシモ当年ハ薄漁加フル
ニ七月中姥神町ヨリ出火最モ延焼ノ多カリシ
モ細民ハ災害ヲ被ラス然レトモ初秋ヨリ追々米
穀ノ輸入モ減少シ聞クニ内地 青森縣下秋田縣下ノ諸方ヲ云フ ハ不作
ニシテ飢饉ナルヲ以テ一切航船モナク陪々人
民食料ノ欠乏ヲ視ルニ到ル七月中米価玄米四
斗入壱俵六匁五分 壱分三朱ト二百七十五文 ナリシヲ冬季ニ及ヒ

壱両二分余ニ昂騰ス細民困難ヲ極メ蕨ノ根等
ヲ掘ルモ山野ニ跡ヲ絶ス旧松前藩 後館藩トナル ニテ江
差ヘ檜山会所ヲ■官吏ヲ派遣セシメ民政ノ事
務ヲ兼シム当時桧山会所ヨリ赤貧者ヘ米ヲ与
ヘ救育ニ従事シ及札米ヲ売ラシムルニ壱升百
弐拾文ニウラシム窮民及貧大ニ飢餓ヲ免レタ
リト云フ
 但本年冬ヨリ■テ五年ノ春ニ至リテモ野餓
 孚アリシヲ見ス同年初夏旧幕巡見使来着セ
 リ
天保五年六年ハ各村落ニテ畑作ニ従事スルモ
ノ多キヲ視ル作モノノ生暢最ヨシ村民ニ聞
ケリト云フ

天保七申年ノ凶荒ハ巳ノ年ヨリ一層ニシテ人
民打ツツキノ窮乏故市街及各村トモ疲弊ヲ究メ
タルニ際シ内地ヨリ窮民続々当地ヘ渡航シ■
故ノ有無ニ関セス無給ニテ雇入ラレント言■
ニ断ルモアリ又口糊ノミニテ差措クモアリ又
食ヲ与ヘテ行カシムルモアルヨリ路傍ニ斃レ
■■ノ惨状ヲ視タリト此際モ桧山会所前災ノ
度ノ如ク札米ヲ売ラシム一升価百二十文ニシ
テ一家ノ人口ニ応シ二日或ハ三日ノ食料ニ充
ル分ヲ売与ヘ札米ヲ買フノ資力ナキノ貧民ヘ
ハ夫々施米ノ挙行アリタリ其米タルヤ江差市
街ノ富民より檜山会所ヘ差出タルト■所ノ支
出等ヲ合セテ施与セシト想像セリト云フ本年

ノ米価玄米四斗入壱俵ニ付二両二分余ニ昂■
セリト同年冬十月甚五兵衛同町ニ宮下七右エ
門 故人 ナル者自分船ニテ津軽地方ヘ米ヲ買ント
渡航シ青森ニ至ルニ容易ニ米ノ積出ヲ免サス
同所ノ富家及酒造家杯ニテ粥ヲ施与スルノ場
合ニ遭遇セシニテ些少ノ米ヲ隠匿シテ積載シ
テ逃ルカ如ク青森港ヲ出航其沿海ナル小湊ト
云フ所ニヨセテ四五軒ノ家ヲ訪ヘシニ枕ヲ並
ヘテ餓死セル家アリ或ハ人アルモ容顔蒼膀又
ハ疲労シテ言語タニ通セサルモノヲ視尚隣村
ニ到リテ見ルモ同様惨状ナルニ驚キ早々船ニ
帰抜錨江差ヘ帰航セリト即日七右衛門ヨリ聞
ケリト云フ

江差影之町平民中村利兵衛 今年六十五歳江差病院理事 ノ口碑

 江差影之町平民中村利兵衛 今年六十五歳江差病院理事 ノ口碑
天保七申年飢饉ニ際シ内地ノ不熟ヨリ入米更
ニナク当地人民ノ窮乏ニ罹ル者多キヲ視ルニ
檜山会所ヨリ札米或ハ救助米等ヲ乞フ者多ク
又ハ山野ニ蕨葛ノ根ヲ掘ルモノ太タシキヲ視
タリ富民ニシテ其余裕アルモノモ頻リニ節倹
シテ飢災ニ陥ラサルヲ要ス又貧民ノ如キ日ニ
卒々食ヲ■ムルノ汲汲タルノ景況ニテアリシ
ヲ覚ユ此際各村漁業者ノ銀主人江差姥神町岸
田五郎右衛門 当主ヨリ二代前 ナル者ヨリ資本ヲウクル者九
百戸余ニテ此人■モ極メテ多カルヘキニ五郎
右衛門方ニテモ輸入米ノ不足ヨリ仕込方ヘ支
■リノ不充分ヨリ米壱升素麺壱玉大豆三合位

ノ割ニ等測シ壱戸応分ノ食料ヲ配当シ救育セ
シト聞ケリト云フ

五勝手村平民矢原畄吉 当年七十歳 ナル者口碑

 五勝手村平民矢原畄吉 当年七十歳 ナル者口碑
天保七申年冬十月ヨリ酉ノ正月ニ至リ津軽地
方ヨリ福山地方及江差海岸ノ村落ヘ男女渡航
シ各随意ノ地ヘ上陸セシメタリ其人民ハ多分
無給ニテ雇ハレントスル数百人アリ我五勝手
ヘモ雇ハレンシモノ多クアリタリ中ニハ乞食ヲ
シテ路傍ニ斃ルモノアリ又上ノ国村ヨリ当村
ニ達セジジテ■漠或ハ叢中ニ■レ死スル者ア
リシヲ視タリト云フ
同年十月ノ頃カト想像セル此際ニ同村ノ長兵

衛 故人 ナルモノノ雇人ニシテ漁業ノ船頭 姓名不詳 ヲセ
シモノ年々津軽地ヘ帰船シテ春季ニ至レハ本
地ヘ来ルヲ常トセシモ此飢饉ニ際シ此年ハ年
内ニ渡航ノ用意セシニ飢民ノ依頼ナリトテ男
女 七八歳ヨリ十三四歳マテ ヲ四十人程モ乗セ来タリ当村字相泊
リヘ上陸セシメ夫々養育者ニ■シ残ラス生命
ヲ全クセシメタリト云フ ■■其際食ノ■■アルモノハ船頭ヨリ壱人或ハ二人ツツモラヒシモノト想像セリ

同村平民川道仁太郎 当年七十歳 ナルモノノ口碑

 同村平民川道仁太郎 当年七十歳 ナルモノノ口碑
天保四巳年内地凶荒ノ為江差及各村モ米穀ニ
乏シク別テ当村及上ノ国沢ニアル処ノ支村等
モ困窮ヲ究メタルヨリ追々当村字トト川奥ノ
荒蕪地ヲ開墾シ蕎麦ヲ初テ播種シ及馬鈴薯等

ヲ播種シ■カ実リモアリシヨリ年々開墾ニ従
事セシニ同七申年ノ大飢饉トナリテハ本村ノ
作物モ大不熟殊ニ内地ヨリ米ハ一切輸入ナシ
トテ市街ニテモ米穀ノ売買ハ追々ニ減セシヨ
リ日々山野ヲ奔走シテ蕨葛ノ根ヲ堀取リ一夜
ノ内ニ澱粉ニ製シ粥ニ混淆シテ食ニ充テ山野
積雪ノ候ニ至リテハ海岸ニ立テ昆布ノ寄リ上
ルヲ拾ヒ火■ニカケテ乾燥セシメ春ツキテ粥
ニ淆同シテ食シ或ハ蓬ヲツミ■ヲ水ニサラシ
同シク粥ニ混シテ各食数■月ノ惨状ナリト懼
々トシテ云ヘリ
又上ノ国沢ノ寒村ヨリ市街各村ヘ来タリテ犬
ヲ打殺シテ持帰ルヲ見ルコト日々ナリト云フ

江差上野町平民土岐大三郎 当年五十九歳 ナルモノノ口碑

 江差上野町平民土岐大三郎 当年五十九歳 ナルモノノ
 口碑
同人モ父存生中則チ天保年間津花町居住ニテ
豪商ノ屈指タルヲ以テ同七年ヨリ八年ノ頃ハ
同町々代ヲ勤メタルヲ以テ救民ノ事ニ少ク関
セシヤ其際同家ニ所有ノ舩アリシヨリ米欠乏
ニ付自分ノ食用及仕入方ノ手当ニ充ンカ為津
軽地ヘ渡航シ米九百石程買入レ搭載シテ帰帆
セシハ同八年正月也ト思ヒタリ其舩ノ米ヲ積
帰リタルヲ聞檜山会所ニテ亡父ニ令シテ其米
ヲ残ル処ナク買上ラレタリ依テ自分ニテハ壱
俵モ使用セザリシト相像スト云フ壱俵ノ価金

壱両壱分ナリト覚ユト云フ
本年ノ飢饉ニ遭遇シ細民ノ困窮ヨク衆庶ノ知
ル所ナルニ同年冬季ヨリ超テ正月二月両月間
秋田津軽南部地方ノ人続々押渡リ口糊ノ為ニ
市街ヲ奔走シテ雇主ヲ■ントスルノ夥多ナル
モ壮年ノ者ハ兎角漁夫ノ見込ヲ以テ夫々有付
引受人モアリタルニ老年輩ニ至リテハ引取人
モナキヨリ桧山会所ニテ其者共ヲ集メ壱人三
合ツツノ米ヲ給ハリテ救育ニ着手セラルルニ
テ詰木石町字鍛冶町下濱ニテ巨大ノ板蔵ヲ借
上ケ窮民数百人ヲ容シ救育シ数月間ノ後全ク
暖天ニ赴シヨリ夫々其方向ヲ得セシメ放散セ
シト云フ

本年ノ如キ市街商家ニ売米更ニナキヨリ細民
ハ粥ニ蕨葛ノ澱粉又ハ野菜(蓬及野々葉)或ハ壓布(昆布ヲ晒シ乾燥セ
シメコマカニセシヲ云フ)混同シテ口糊ス就中内地ヨリ来ル人民
ハ米穀ヲ求ムルノ資力ナキハ勿論ナレハ鯡ノ
鮓或ハ切込等ヲ乞テ野菜ヲ交ヘ食シテ命ヲ完
フセシ者多シト云フ其凶年以来鯡ノ鮓及ヒ切
込等ヲ余分ニ貯フルハ尋常賄ノミナラス凶歳
ニハ一食ノ稗ケヲナスモノトテ今ニ至リテ人
ノ言ヘアエルナリト云フ

江差沢茂■町居住池垣為吉ノ祖父■右衛門 存生中ノ記録中ヨリ■写ス

 江差沢茂■町居住池垣為吉ノ祖父■右衛門
 存生中ノ記録中ヨリ■写ス

天保四年ニ至リ津軽■口沢村幸八船春雇人男
女凡ソ五十人計リ積来タルニ其年折悪ク向地(向地トハ奥羽ヲサシタルナルベシ)
大凶作爰元米直段大ニ高直ニ付旅人共向地ヘ
渡海被仰付(渡海仰付ラレトハ役所ヨリ旅人ヲ帰国セシムベクノ達シ出タルナルベシ)右■待中無給金ニシテ幸ヒロ過而
己ノ人故当村弥兵衛親父ノ沢ニ於テ新田開発
仕工夫致シ凡一人男バカリ日ニ廿四五人三十
人位宛三月五日頃ヨリ十五日頃迄但シ南ヨリ
北方ノ沢奥ヘ凡七十間ハカリ西ヨリ東四十間
位四方ヘ土手上ヶ川外ハセキヲ堀リ回シ右人
数昼夜ノ働キ日々三喰又ハ弁当トシテ濁酒一
度ツツ為呑此方ヨリ鍬頭トシテ当村居住生レ
ハ津軽イツミノト申地ヨリ来ル人ニテ小笠原
仁太郎ト申人ヲ差配人トシテ手配仕三月一■

ニ出来尚又田地大小取合五十■ハカリ耕ス其
夏■稗苗植立陸作ハ大豆小豆或ハ五升芋類ヲ
マキ今年諸国田作トモ大豊作ニテ十分実リ大
ニ勝利罷在候右幸八船三月下旬二十七日出帆
相成候■主一人此方ヨリ手当金三両ニ身欠壱
本鮓鯡壱樽呉ツカハス同人大ニ悦ヒ行申候
天保四年六月廿八日律花町通リ切石坂下濱水
戸兵作方ヨリ出火ス
天保七年ハ記載ナシ
同八年酉ノ三月 昨申年ノ秋頃向地北国筋加
賀越中辺並出羽奥州地陸作共大凶作ニ付飢饉
ニ及当国辺モ五穀大高直市中在町ハ大徒■(大徒■ハ大騒動ノ誤カ)米
一切売買ハナク極不自由ニハ候ヘ共春鯡漁業

ノ為相庶ニ積下リ船有之就テ今少ノ間米モ入
不足ニ付此方飯米買合セモ可也有之候ニ付当
村御役場ヨリ札米売セラルル由被仰付五俵札
米ニ売払ヒ並五俵ハ村中極窮ノ者共ヘオスク
ヒニ呉遣ス札米ノ義ハ江差直段当地百廿文(壱升ニ付百廿文也)ニ
売遣ス尤モ内通リ直段ハ■■ニ抱ハラス右様
ノ次第諸人助ノ為メ五俵札米五俵オスクヒ右
難渋ノ者共ノ名前ノ義ハ別帳面■要記有之候
此記載ニ年代月日丈ケシルシ置候後日子孫心
得ノ為
尚又同村藤谷治兵衛殿米沢山買入有之様子ニ
テ村米数十貸付シ札米ヲ三十俵売上被仰付則
御請致候様子是又噂承リ候ニ付記録ス

 但他所ニテ内証売買四斗入壱俵壱両二分三
 分位ナリ
同年四月ニ相成江差ヘ下リタル壱番船越後米
四斗入壱俵壱両壱分ヨリ二分位ノ売買ナリ
  右是迄■写
佐々木律郎福山ニ在シ時養父母及古老ニ聞ク
旧津軽侯江戸出府在邸ノ際旧松前侯ノ邸ヘ使
者ヲ以テ御挨拶ニ及ハレタリト其語ニ曰天保
四同七両年奥羽大凶荒ニ際シ凶国ノ人民飢饉
ヲ免ント松前地方ヘ渡リ其凍餒ヲ凌キ命ヲ完
フセシモノ夥多ナル内弊国ノ人夫就中多ク貴
国ノ救育ヲ以テセシ者寡ナカラサル趣相聞ヘ
候ニ付此段厚ク報謝ニ及フト且向後貴国ニテ

米穀■僅ノ際ハ弊国ヨリ保護致スヘク旨共懇
々使者ヲ以テ申入ラレタリトハ福山地方古老
ノ人口々専ラ膾炙ス
該凶荒ノ災ニ松前地方ヘ波及スルニ際シ両度
ノ飢饉ニ難ヲ等フスル畢竟常ノ備ヒナキヨリ
トテ豪家ハ内地ニ憑テ籾米等ヲ貯フル者モア
リタリト聞ク■凶災以来松前家所領ノ折ハ■
布ヲ毎村漁家一戸ニ付一舛入壱袋宛ヲ年々徴
収シテ凶荒ノ備ニ貯蓄致シ来ルモ何年度ニ徴
収ヲ廃止セシヤ詳ラカナラス
慶應元年ヨリ同二年間福山地方米価ノ昂貴セ
シコト已ニ玄米四斗入壱俵七両三分以上ニ及ヒ
細民困難ナリシモ餓死セシ者ヲ視ス旧官ニ於
テ豪商ニ令シテ札米ヲ売シ……………………
ムルニ当リ壓布ヲ出シテ米ト共ニ應分ヲ割付
与ヘタルハ則チ其先徴収シタルノ功ナリト云
ヘリ

太櫓郡■多村 藤谷米蔵 六十三歳

         太櫓郡■多村
            藤 谷 米 蔵
               六十三歳
天保四年ノ儀ハ何分■知セサル■アリテ申上
ケラレス天保七年大飢饉ノ現況ハ最モ甚シク
水田稲作ハ壱粒モ実ラス畑作トテモ悉ク熟セ
サル故ニ中■以下ノモノハ日々食物田畑ヨリ
穫ルコト出来難キ為メ老人子供モ山ヘ行ケルモ
ノハ皆蕨ノ根ヲ掘リ打砕キ粉ニ製シ漸ク其日
ノ糧ニスレトモ■モ空腹ヲ補フコトナリ難ク■ニ
ハ数多ノ人ナシハ其蕨ノ根モ採リ続カス又食

糧十分ナラザルヨリ山野ヘ歩行スルノ力モ尽
キ終ニ■ヘ疲レテ家ヘ出ツルコトモナラヌモノ
ハ坐ナカラ倒レ或ハ漸ク歩行シ或ハ匍匐テ出
レハ路道ニ転ヒ再ヒ起上クヘキ気力ナク其侭
死スルモノ日々夜々ニ多ク道路ハ死骸ノ為メ
目■シク誠ニ恐ロシキ事ニ有之候是等ハ皆私
生国陸奥国津軽郡兼館村ニ於テ現ニ目撃シタ
ル事実ニシテ私モ漸クシテ助命シタル儀ニ御
座候
斯ノ如キ場合ナレバ坐ナカラ生命ヲ保タレ難
クニ付幸ヒ強壮ナルモノハ秋田地方ヘ逃ルル
モノアリ松前ヘ渡船スルモノアリ右等ノ内目
的ノ地ニ到ラサルニ餓死シタルモノモ数多有

リタル赴承リ候
私儀ハ此大難ヲ漸ク凌天保八年三月古■多村
ヘ小船ニテ渡リ当時ハ仝村ノ人家ハ三戸ヨリ
ナキコト故急ニ茅ヲ刈リ小柴ヲ伐リ小家■ケヲ
ナシ昆布若布鮑等食物トサヘ見レハ目ニ当ル
モノ採リ又ハ蕨ノ根葛ノ根ヲ堀リ粉ニ製シ又
ハ百合ヲ堀リ煮焼シテ日々ノ食料ニ充テ漸ク
相助リ候外三戸ノ人々モ仝様ノ凌キヲ致シ居
リ候儀ニ有之候

仝郡仝村 西川孫十郎 五十七年

        仝郡仝村
           西 川 孫 十 郎

              五十七年
天保年間諸国大飢饉ノ趣ハ伝承仕候得共当村
ニ生育セシ私ナレバ其現況ハ不存候得共其当
地ヘ影響ノ及ホシタル実況ハ幼年ナカラ粗存
居候天保七年飢饉ノ前ハ玄米壱石代金壱両位
ノ処仝年ノ秋ヨリ翌八年春ニ至リ壱石金五両
ニ騰リ此頃私共始メ当地ノ人々糧米ヲ買入ル
ヘキ手段ナク昆布若布鮑ノ類又ハ百合蕨ノ根
葛ノ根ヲ堀リ各粉ニ製シ食料ニ致シ相凌候然
ルニ葛ノ粉ヲ多食シタルモノハ忽身腫気ヲ生
シ二三名死亡イタシ候
当時太■郡中ノ模様ハ旧土人ヲ除クノ外人家
ハ古■太村ハ三戸太■村ハ四戸良■石村ハ三

戸■泊村ハ人戸ナシ又郡中往来スルモノモ甚
少ナク故ニ道路モナク海岸ノ岩石ヲ漸ク歩行
イタシ候

瀬棚郡瀬棚村 山内 萬蔵 五十八年

瀬棚郡瀬棚村 茅野 儀兵衛 六十四年

       瀬棚郡瀬棚村
           山内 萬蔵
              五十八年
       瀬棚郡瀬棚村
           茅野 儀兵衛
              六十四年
天保四年七年諸国大飢饉ノ頃ハ私共幼年ニシ
テ確ト辨ヘス候得共父母ヨリ伝聞ノ侭左ニ申
上候
天保四年ノ飢饉ニ越后津軽其他国々ノ人々生
国ニテハ食糧乏シク堪ヘカヌルヲ以テ当道ヘ

逃レ参ル節私共父母共申合家族各四人ツツニ
テ小舟ニ乗組仝年七月中瀬棚村字三本杉ヘ到
着其頃ハ仝村旧土人拾五戸外人家四戸有之右
四戸ノ内ヘ慈愛ヲ受仮住イタシ候
到着后食料ハ蕨ノ根葛ノ根ヲ山野ヨリ堀リ採
リ打砕キ粉ニ製シ豆腐カラ或ハ米少々ヘ粉多
分ニ混入シ食用ニ供シ候又昆布ヲ刈リ日ニ乾
シ其上火ニアブリテ臼ニテ砕キ四舛入位ノ鍋
ヘ昆布ノ粉壱舛ヲ入レ水充分ニ入レ能ク煮タ
ル上煮汁ヲ棄テ其昆布粉ヲ水ニテ洗ヒ此手続
ヲ二三度ヲ経テ飯ノタキ上ケノ際右ノ粉ヲ飯
ノ上ニ布キカケ暫時蒸シ置キ后チ飯ト混合シ
相凌居候

天保七年ノ飢饉ハ一層甚タシク米穀欠乏ニ付
前四年ノ如ク蕨葛根昆布等頻リニ調製シ食糧ニ
充テ漸ク助リタル儀ニ有之候

久遠郡太田村 神野 ■右エ門 七十七年

        久遠郡太田村
           神 野 ■右エ門
               七十七年
天保四年中ハ尓志郡熊石村ニ居住罷在候当時
仝村ノ戸数六拾戸余リニシテ相応ナル商店六
七戸アリ然ルニ本年ハ諸国飢饉ノ趣ハ伝承仕
候得共日々小売米等有之故食糧ニ就テハ仝村

内ノ人々格別ノ難儀モ無之様覚候
仝六年久遠村字一艘澗ヘ移リ仮小家ヲ造リ住
居イタシ時ニ久遠湯ノ尻上古冊太田村中ニ総
戸数旧土人共拾四五戸程ニ有之翌七年ハ本地
ノ影響尤も甚シク米ハ村中ニ払底一切買求ム
ルコト相成難ク少々充熊石ヨリ買求メ此年ハ漸
クニ相凌キ翌年ハ一層困難始メテ粟稗馬鈴薯
ヲ蒔付又山野ヨリハ蕨根葛ノ根ヲ堀リ各粉ニ
製シ■ニ食料トセリ又昆布若布ヲ採リ食糧ノ
補ヲナシ相凌キ候其后天保十三年太田村ヘ移
住仕候

久遠郡湯尻村 齊藤久右エ門 六十七年

        久遠郡湯尻村
           齊 藤久右エ門
             六十七年
天保二年夏父ト倶ニ尓志郡熊石村ヨリ久遠郡
平田内村ヘ移住当時仝村ノ戸数三戸ナリ仝四
年諸国凶荒ニ付然レトモ此年ハ漸クニ相凌翌年
ヘノ影響甚シク蕨ノ根葛根ヲ堀リ昆布ヲ拾ヒ
何レモ粉ニ製シ米ヲ打砕キ粗粉トナシタルモ
ノヘ混和シ■キ粥トナシ然ルニ五人ノ家族ニ
シテ一日ニ三度ツツ食糧トナスヘキ程蓄モ無
之故一日二食ニ定メ精々相凌キ其后天保七年
飢饉ノ節モ前年仝様ノ凌ヲ以テ取■候文久三
年中湯ノ尻村ヘ移住致候

久遠郡平田内村 ■屋 ヤ江 七十一年

         久遠郡平田内村
           ■ 屋  ヤ江
              七十一年
文化年中父ト倶ニ熊石村ヨリ平田内村ニ移住
夫ヨリ数年ヲ経天保四年諸国大飢饉ノ節ハ(当
時仝村ニ戸数三四戸アリ)翌年私共始メ村中ノ
人々蕨ノ根ヲ堀リ寄リ昆布ヲ拾ヒ何レモ粉ニ
製シ粉粥ヘ米少々交ヘ食セリ粟稗大根ヲ蒔付
粟粥ヘ大根ヲ細カニシテ混入シ食糧トイタシ
候仝七年再ヒ飢饉ニ付此回ハ一段甚シキ故ニ
蒔モノモ一層多クイタシ蕨根等モ頻リニ堀リ
採リ漸ク相凌キ候諸国ヨリ渡リタル人ハ平田
内ニハ無之様覚候

仝郡取澗村 井川 サヨ 七十一才

         仝郡取澗村
           井 川 サ ヨ
              七十一才
文化年中父ト倶ニ尓志郡乙部村ヨリ貝取澗村
ヘ移リ其后天保四年中国々飢饉ノ節ハ(当時貝
取澗村戸数三四戸アリ)村中ノ人ハ勿論私共ハ
日々蕨ノ根ヲ堀リ昆布ヲ刈リ何レモ粉ニ製シ
右粉ヲ粥ト為シ食セリ又粟稗蘿蔔ヲ蒔付粟粥
ヘ蘿蔔ヲ細カニ切リ粥ヘ混入シ食ス仝七年ノ

凶荒ニモ右之如クニシテ相凌キ候其頃諸国ヨ
リ渡リタル人ハ貝取澗ニハ無之候

奥尻郡釣懸村 上野 元兵衛 六十六年

         奥尻郡釣懸村
            上 野 元兵衛
              六十六年
天保四年及七年中ハ奥尻郡釣懸村ニ於テ他家
ニ召使ハレ居リ候然ルニ前両年間奥羽地方大
飢饉ノ趣ハ正ニ伝■仕候得共当時当郡ハ他ヨ
リ漁稼ノモノ夏中数多入込秋ニ至リ帰郡致シ
郡中住居リモノハ僅カニ三戸人口七八人ナレ
ハ食糧モ■タル■ナク相凌候故ニ飢饉ノ影響
ニテ堪ヘサル程ノ難儀等無之又凶荒諸国ヨリ
逃レ渡ルモノ壱人モ無之候

1)
花押か?
2) , 3) , 4) , 5)
屋号
6)
広辞苑によれば「暑気あたりの病。普通、日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた」とあり、『椴法華村史』によれば「急性腸カタル・コレラ・疫痢等の病気のことを意味する」とある。
7)
蕗(ふき)の古名。
8)
ドングリ
10)
すずしろ。大根のこと。
松前天保凶荒録_函館県_編.txt · 最終更新: 2021/04/18 00:24 by donan