マウスコンピュータのノートPC

Excel、Wordが使いたくてマウスコンピュータのノートPCを購入(Macではどうしても痒いところに届かないことが多くなってきたので。)。

OS、セキュリティソフト、Office等の設定後、emacsの設定まで済んだところで本日は終了とします。

SSDだから静かなのかと思いきや、ファンの唸りなかなかのものでした。

 

マウスコンピュータ http://www.mouse-jp.co.jp/



矢不来台場の砲数

開拓使編(明治17年)『北海道志』巻22に矢不来台場についての記載があります。

矢不来台場 鉄砲4門 1貫目 500目 300目 150目

1貫目、500目、300目、150目の計4門の砲が配置されていたようです。

北海道志巻22

  • 国立国会図書館デジタルコレクション>『北海道志』巻22 4コマ目 (2017/01/02 アクセス)

 


ADEAC(アデアック)

ADEAC(アデアック)というデジタルアーカイブシステムがあって、かなりの史料が公開されていることを知りました。

ADEAC : https://trc-adeac.trc.co.jp/ (2017/01/01 アクセス)

特に、「函館市 函館市地域史料アーカイブ」のページでは、『函館市史』のほか、『恵山町史』『戸井町史』『椴法華村史』『南茅部町史』が公開されていました。


『ペリー提督日本遠征記』

ペリー提督の『日本遠征記』、”Narrative of the expedition of an American squadron to the China seas and Japan”としてインターネット・アーカイブ(www.archive.org)で閲覧可能となっていました。

  • volume 1 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 2 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 3 (2016/12/31 アクセス)
  • volume 4 (2016/12/31 アクセス)

ペリー日本遠征記

上記「volume 1」に掲載されている七重浜近辺と思しき絵。補給用なのか、漁をする様子が描かれています。

ペリー日本遠征記

上記「volume 4」に掲載されている函館湾の図。有川、矢不来、茂辺地の記載があります。

日本語で出版されているものであれば、以下のものが良さそうです(未読ですが。)。


『延叙歴検真図』と『北海道歴検図』

幕府の役人、目賀田守蔭がまとめた『延叙歴検真図』という鳥瞰図。全道、樺太までの調査結果が鳥瞰図として掲載されており、北斗市も有川村、矢不来、茂辺地村、當別村、三石村の記載があります。

明治4年に開拓使からの要請を受けて、『延叙歴検真図』を清書して提出したのが『北海道歴検図』らしいです。

※2016/12/25 アクセス。


『蝦夷地名考并里程記』のなかの上磯地名

上原熊次郎(文政7)『蝦夷地名考并里程記』に上磯(現北斗市)の地名も出てきており、アイヌ語を語源とする旨記載されています。諸説あるのでしょうが、アイヌ語源というのは理解しやすい気がします。

東京国立博物館デジタルライブラリーにて『蝦夷地名考并里程記』の画像データも公開されており、該当箇所は7ページ目となります。

『上磯町史 上巻』の読み下しによれば、

 当別:夷語トヲウンベツなり。沼の有る川と譯す。トツは沼の事。ウンとは生するの訓にて有と申事なり。此川の奥に沼有る故号くという。

茂辺地:夷語ムーベツなり。塞る川と譯す。ムーとは塞と申事。ベツは川なり。此川餲水亦は仕化の節、水口塞る故、地名になすと云う。

戸切地:夷語ベケリベツなり。あきらかなる川と譯す。ベケリとは明らかと申事。ベツは川なり。この川の流れ清き故、地名になすと云う。

この戸切地の項には、有川について「此村内(戸切地)東の方の枝流を有川といふは和語なるべし。則、戸切地川の枝川なり」とある。

久根別(ク子ベツ):夷語クン子ベツなり。則、濁川と譯す。クン子は黒い又濁るの訓にて、ベツは川なり。此川水常に濁り流るゝ故、地名になすと云ふ。

七重:夷語はナァナイなり。則多く渓間有と云ふ事。ナアとは幾重等もと申事。ナイは渓又は沢等と申事なり、此辺渓沢の多く在故、地名になすと云ふ。

『上磯町史 上巻』p.511

蝦夷地名考并里程記

蝦夷地名考并里程記

画像は、上記東京国立博物館デジタルライブラリーで公開されている『蝦夷地名考并里程記』(2016/12/21 アクセス)です。


薬師寺東塔、奈良時代に新築(読売新聞)

建立年代に議論のあった薬師寺東塔について、年輪年代測定にて、心柱と部材が奈良時代前半のヒノキ材を用いていることが判明した旨奈良文化研究所などが発表したとの記事です。

こうやって新しい事実がわかってくるのは、とても面白いことだと感じます。

同研究所が東塔の部材71点を調査。このうち塔の中心にある心柱(直径90センチ、高さ30メートル)の伐採年が719年以降、1階の部材など5点が712~730年とわかった。平安時代末の歴史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」にある、東塔が730年に建てられたとの記述と合致する。

『扶桑略記』は、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能でした。(『国史大系』第6巻>扶桑略記


松宮観山『蝦夷談筆記』

江戸中期の儒学者、松宮観山の『蝦夷談筆記』に茂辺地、富川、戸切地のアイヌ居住について記載有。

『上磯町史 上巻』(1997年,上磯町)p.510に当該箇所の読み下しが載っています。

一、蝦夷地と松前地との境の義しかと限は無御座候。西在郷は田澤、乙部、東在郷ちこない、しやつかり、茂辺地、富川、へけれ地辺迄、人間 日本人の事を云 と入交り、蝦夷人居住仕候。しやも 日本人の事 の中に交り候て住居仕候義好不申哉、段々蝦夷地へ引入候て、近年は少く罷有、田澤、乙部杯のゑぞは疱瘡疹に死亡仕、只今は大方絶申候事

茂辺地、富川、戸切地のあたりでも蝦夷人が和人と混住していたものの、混住を嫌い、蝦夷人は蝦夷地に移っていったため少なくなった、といったことのようです。

なお、『蝦夷談筆記』の写本データが、早稲田大学図書館古典籍総合データベースに掲載されており、上記箇所(2ページ目が当該箇所)についても確認できます。