高龍寺蔵 蠣崎波響筆 釈迦涅槃図

釈迦涅槃図

高龍寺宝の蠣崎波響筆釈迦涅槃図。毎年4/1〜4/15まで一般公開されます。かなり見応えがあります。

2019年4月13日訪問。

以下、キャプションより。

釈迦涅槃図(北海道指定有形文化財)蠣崎波響筆
涅槃図では珍しく双幅の形式をとっており、一切の煩悩から解脱し入滅する釈迦とそれを見取り悲しむ僧侶や貴人、俗人に至るまでの人々、さらに動物から植物にいたる森羅万象がその安心立命を思うさまを描き、右側には多分の余裕を持たせながら、構図の拡がりを効果的に利用している。動物は多種が描かれ、トラやサル、ウサギなどは応挙風に描かれ、ミミズ・カタツムリ・トンボ・カマキリ・ホタルなど、小さな生き物への愛情さえ感じさせる描写もある。多種多様の鳥の毛や羽の描き方などは博物図譜を思わせ、当時の博物学(自然誌)の隆盛が波響の釈迦涅槃図に大きく影響していることがわかる。通常、東西南北2本ずつ合わせて8本描かれる沙羅双樹の木が11本となっていることは異例である。
波響はこの年48歳、松前の復領や肺患に悩みながら生涯に残すべく、彼の持つ総力を結集したものである。
この絵の款記には次のように記されている。
時文化辛未秋九月為松前函館奥山高龍寺十一世禅海上人
蠣崎源廣年斉沐
拝手写於波響樓
※當山では、毎年涅槃会法要にあわせ、4月1日〜15日まで釈迦涅槃図を一般公開しています。

蠣崎波響(1764〜1826)<本名—廣年>
松前藩第7代藩主資廣の5男として生まれ、翌年、家老蠣崎家の養子となる。幼少期は江戸で過ごし南蘋派の建部綾足に学び、のちに宋紫石について画風を学ぶ。18歳になった波響は、松前に戻り家老見習いとして藩政に携わる一方、大原呑響や円山応挙に師事し画風を南蘋派から円山派に大きく変化させた。
1807(文化4)年、幕府は松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)へと移封することになった。この懲罰的移封は藩主で波響の兄にあたる道廣(第8代)の豪慢と当時懸案化してきた北方問題にあったと云われている。
44歳となり家老として藩政の中枢を担っていた波響は、梁川移封後も松前への復領に心血を注いでいた。こうした状況の中、文化8年、交友のあった高龍寺11世華重禅海住職の頼みであった釈迦涅槃図を制作する為函館に渡る。この時の波響は、家老の職にあったとは思えないほど精力的に絵を描き続け、次々と名品を生み出し画人として最も円熟した時期であった。1821(文政4)年、復領し松前に戻った波響は家老の職を退き1826(文政9)年、63年の人生に幕を閉じた。
波響のその他の作品は、クナシリ・メナシの蜂起で松前藩に協力したアイヌの首長を描いた「夷酋列像」が代表作として知られている。
<當山では釈迦涅槃図の他に四時競色図・羅漢図・鶴亀図を所蔵>




谷好寺

谷好寺

谷好寺。住所は谷好(たによし)ですが、「こっこうじ」と読みます。
平成31年3月24日訪問。

  • 谷好寺
  • 北斗市谷好3丁目12番5号

北海道新聞「学生との古銭調査紹介 3月退職の函館高専・中村教授講演 」

中国からアイヌ民族を介して北海道に伝わった「蝦夷錦(えぞにしき)」の研究などに尽力した函館高専の中村和之教授(62)=東洋史=が本年度末での定年退職を前に21日、函館市戸倉町の同校でこれまでの研究について振り返る記念講演会を開いた。

中村先生、御定年だったとは…。

 中国からアイヌ民族を介して北海道に伝わった「蝦夷錦(えぞにしき)」の研究などに尽力した函館高専の中村和之教授(62)=東洋史=が本年度末での定年退職を前に21日、函館市戸倉町の同校でこれまでの研究に...

函館新聞「市立函館博物館「デジタルアーカイブ」リニューアル」

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データをホームページ上で公開する「デジタルアーカイブ」をリニューアルした。考古、美術工芸など7分類100件の資料を公開。画像の拡大閲覧や検索などの機能を強化した。公開資料数を順次増やし、資料の活用促進につなげたい考えだ。

未来大学と連携し始めてから、函館のデジタルアーカイブはかなり進展した印象です。さらなるデジタルコンテンツの公開に期待してます。

市立函館博物館「デジタルアーカイブ」リニ・・・

北海道新聞「パリに出品「赤彩注口土器」 9日から 八雲で「凱旋」展示」

町野田生で出土した縄文土器で、フランス・パリで昨年開かれた「縄文―日本における美の誕生」展に海外初出品された「赤彩注口土器(せきさいちゅうこうどき)」が、9日から町木彫り熊資料館で「凱旋(がいせん)」展示される。

常設展示されてないそうなので、実物を目にすることができる貴重な機会です。

 【八雲】町野田生で出土した縄文土器で、フランス・パリで昨年開かれた「縄文―日本における美の誕生」展に海外初出品された「赤彩注口土器(せきさいちゅうこうどき)」が、9日から町木彫り熊資料館で「凱旋(が...

日経新聞「北海道の松前城、木造復元へ 事業費30億円」

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守は老朽化で耐震性が危ぶまれ、改修を検討していた。整備期間は最短で16年、事業費は約30億円と見込んでいる。

16年後。新幹線も札幌まで伸びているだろうし、自分も60目前だし。復元された天守閣は老後の楽しみか?

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守

八郎沼公園

八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園

平成30年10月28日訪問。

説明板

八郎沼公園の由来
八郎沼のおこりは、明治13年の頃山田致人(現愛媛県生れ)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て綜合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。
大野町教育委員会
大野町観光協会
平成18年2月1日より北斗市

八郎沼公園

八郎沼公園
八郎沼の起こりは、明治13年山田致人「弘化3年伊予国(現愛媛県)生まれ」が向野の観音山で酪農を始めたことにある。乳牛頭数5頭、うち4頭は雌であったという。致人が牛に水を飲ませるために池を掘って水を貯えたもので、それが水田の用水ともなった。後年、中村長八郎氏が修築し、養鯉場や水田かんがい用のために造ったのがこの沼であり、長八郎氏の名前にちなんで「八郎沼」と名付けられたといわれている。昭和50年頃から町が公園用地として綜合公園をめざして整備に着手し、現在では「八郎沼公園」として、近郊の市町村や多くの町民に広く親しまれ、憩いの場に利用されている。
平成2年6月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

場所


史跡 志苔館跡

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

  • 2018年10月20日撮影。

説明板

志苔館

史跡 志苔館跡
昭和9年8月9日史跡指定
昭和52年4月27日史跡追加指定
志苔館跡は、函館市の中心部から約9キロメートル離れた標高25メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2〜4メートル、幅10〜15メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。
郭内は、東西70〜80メートル、南北50〜65メートルで、約4100平方メートルの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
函館市
文部科学省

志苔館

志苔館

場所