山川日本史メモ・道南関係

近代・現代

 貿易は1859(安政6)年から横浜(神奈川)・長崎・箱館で始まった。輸出入品の取引は、居留地において外国商人と日本商人(売込商・引取商)とのあいだで、銀貨を用いておこなわれた。輸出入額は横浜が圧倒的に多く、アメリカで南北戦争がおきたこともあり、イギリスとの取引が一番多くなった。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.253

 ペリーは翌1854(安政元)年1月、7隻の艦隊を率いてふたたび来航し、条約の締結を強硬にせまった。幕府はその威力に屈して3月に日米和親条約を結び、(1)アメリカ船が必要とする燃料や食料などを供給すること、(2)難破船や乗組員を救助すること、(3)下田・箱館の2港を開いて領事の駐在を認めること、(4)アメリカに一方的な最恵国待遇を与えることなどを取り決めた。ついで、幕府はイギリス・ロシア(ペリーについでロシアのプチャーチンもふたたび来航し、下田で日露和親条約を結んだ。この条約で、下田・箱館のほか長崎を加えた3港を開港し、国境については択捉島以南を日本領、得撫島以北をロシア領とし、樺太は従来通り境界を定めないことなどが約定されている。)・オランダとも類似の内容の和親条約を結んで、200年以上にわたった鎖国政策から完全に転換した。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.251

近世

(略)1789(寛政元)年、国後島のアイヌによる蜂起がおこり、松前藩に鎮圧されたが、幕府はアイヌとロシアの連携の可能性を危惧した。このようにロシアに警戒心を抱いていたところに、1792(寛政4)年、ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、漂流民を届けるとともに通商を求めた。その際、江戸湾入航を要求されたことが契機となって、幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた。
 この頃、ロシア人は択捉島に上陸して現地のアイヌと交易をおこなっていた。そこで1798(寛政10)年、幕府は近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探査させ「大日本恵登呂府」の標柱を立てさせた。その外側に異国ロシアとの境界線を引く発想であった。こうして1800(寛政12)年には幕府は八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させたうえ、1802(享和2)年には、東蝦夷地を永久の直轄地とし、居住のアイヌを和人とした(和人同様の風俗を強制し、首長を名主に任命する、同化政策を進めた。)。
 1804(文化元)年にはロシア使節レザノフが、ラクスマンのもち帰った入港許可証をもって長崎に来航したが、幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、ロシア船は樺太や択捉島を攻撃した。異国との銃撃戦は未曽有のことで、幕府の衝撃は大きかった。この間、幕府の対外防備は増強され、1807(文化4)年には、幕府は松前藩と蝦夷地をすべて直轄にして松前奉行の支配のもとにおき、東北諸藩をその警護に当たらせた(会津藩の場合は、藩兵を派遣して蝦夷地の海岸で銃隊訓練をしたり、台場を設けて大砲の射撃訓練をおこなってロシアの攻撃に備えた。)。さらに翌1808(文化5)年には間宮林蔵に樺太とその対岸を探査させた。そののち、ロシアとの関係はゴローウニン事件(1811(文化8)年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンが、日本の警備兵に捕えられて箱館・松前に監禁された。これに対しロシア側は翌年、択捉航路を開拓した淡路の商人高田屋嘉兵衛を抑留した。嘉兵衛は1813(文化10)年に送還され、その尽力でゴローウニンは釈放され、事件は解決した。)を機に改善されたため、幕府は1821(文政4)年に蝦夷地を松前藩に還付した。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.235-236

 蝦夷ヶ島の和人地(道南部)に勢力をもっていた蠣崎氏は、近世になると松前氏と改称して、1604(慶長9)年、徳川家康からアイヌとの交易独占権を保障され、藩制を敷いた。和人地以外の広大な蝦夷地の河川流域などに居住するアイヌ集団との交易対象地域は、商場あるいは場所と呼ばれ、そこでの交易収入が家臣に与えられた。アイヌ集団は1669(寛文9)年、シャクシャインを中心に松前藩と対立して戦闘をおこなったが、松前藩は津軽藩の協力を得て勝利した。このシャクシャインの戦いでアイヌは全面的に松前藩に服従させられ、さらに18世紀前半頃までには、多くの商場が和人商人の請負となった(場所請負制度)。
 こうして幕府は四つの窓口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通して異国・異民族との交流をもった。明清交替を契機に、東アジアにおいては、伝統的な中国を中心にした冊封体制と日本を中心にした四つの窓口を通した外交秩序とが共存する状態となった。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.182-183

松前氏と家臣団との主従関係は、このアイヌとの交易権を知行として与えることで結ばれており、この制度を商場知行制と呼ぶ。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.182

(場所請負制度について)アイヌたちの多くは、この段階ではもはや自立した交易の相手ではなく、漁場などで和人商人に使われる立場にかわっていた。和人は、アイヌを交易でごまかしたり、酷使することがあった。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.182

アイヌの参賀の礼として掲載されている『蝦夷国風図絵』は、函館市中央図書館デジタル資料館で閲覧可能。

内容説明 巻子1巻 紙本 着彩 (伝)小玉貞良(龍園斎)/筆 今日伝わるアイヌ風俗の絵としては最古のものの写しの一つで,内容は,魚釣りや昆布採り,熊祭の酒宴の様子が描かれている。昭和37年函館市指定文化財

函館市中央図書館デジタル資料館>『蝦夷国風図絵』

左手の一段高いところに、藩主の松前矩広が着座している。右にみえるアイヌに対して、矩広は五位以上の武家の式服大紋を着て、正式な応待をしている。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.183

中世

 一方、北の蝦夷ヶ島では、古代には「続縄文文化」を経て、擦文文化やオホーツク文化が広がっていたが、それを経て13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになり、津軽の十三湊を根拠地として得宗の支配下にあった安藤(安東)氏との交易をおこなっていた。そのアイヌの人びとのうちサハリンに住んでいた人びとは、モンゴルと交戦しており、モンゴルの影響は広く日本列島におよんでいった。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.109-110

「続縄文文化」は、縄文文化に続く稲作のない文化である。続く擦文文化は独特の文様の土器をもつ文化で、東北北部から北海道・サハリンに分布し、オホーツク海沿岸に分布するそれとは異なるオホーツク文化と並存していた。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.109

 一方、すでに14世紀には畿と津軽の十三湊とを結ぶ日本海交易がさかんにおこなわれ、サケ・コンブなど北海の産物が京都にもたらされた。やがて人びとは本州から、蝦夷ヶ島と呼ばれた北海道の南部に進出し、各地の海岸に港や館(道南十二館)を中心にした居住地をつくった。彼らは和人といわれ、津軽の豪族安藤(安東)氏の支配下に属して勢力を拡大した。
 古くから北海道に住み、漁労、狩猟や交易を生業としていたアイヌは、和人と交易をおこなった。和人の進出はしだいにアイヌを圧迫し、たえかねたアイヌは1457(長禄元)年、大首長コシャマイン(?~1457)を中心に蜂起し、一時は和人居住地のほとんどを攻め落としたが、まもなく上之国の領主蠣崎(武田)氏によって制圧された。それ以後、蠣崎氏は道南地域の和人居住地の支配者に成長し、江戸時代には松前氏と名乗る大名となった。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 pp.130-131

(道南十二館)その一つ、函館市にある志苔館の付近からは、14世紀末から15世紀初め頃に埋められた合計約37万枚の中国銭が出土しており、この地域の経済的繁栄を物語っている。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.130

蠣崎氏の祖武田信広がコシャマインの戦いののちに築城した勝山館跡(北海道檜山郡上ノ国町)からは、武家屋敷跡や職人の工房跡、和人・アイヌの墓地などの遺構のほか、日本・中国産の陶磁器やアイヌの骨角器など、多数の遺物が出土している。

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年 p.131

原始・古代

山川出版社『詳説日本史改訂版』2017年p.12に、縄文時代早期の土器として、掲載されているのは函館市中野A遺跡出土のもの(市立函館博物館蔵)。


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