『新北海道史』「新羅之記録」解題メモ

載録されている「新羅之記録」の解題より。

成立の事情は、後書などによれば、松前景廣が、さきに寛永20(1643)年に幕命によって編纂された松前家系図の不備を正し、多くの記述を補って作成したものであり、正保3(1646)年崇敬してやまなかった近江国園城寺(三井寺)境内の新羅大明神に詣で松前家の遠祖新羅三郎源義光の事蹟等を聞き得た折りに、子孫のためにこれを浄書せしめて家に伝えたものだという。
 本書の内容は、新羅大明神の縁起から説きおこして松前家代々の事蹟に及ぶもので、和人が北海道を支配するに至る初期の状態を、特異な和様漢文をもって物語的、年代記的に叙述したものである。いうまでもなく松前家の遠祖の記述には多くの粉飾を認めざるを得ないが、しかもなお和人による北海道支配の成立過程をこれほど詳細に記したものはなく、本書はまさに北海道の記紀とも称すべき文献である。

北海道編『新北海道史 第7巻史料1』1969年 p.3

 松前家には景廣と称した人物が二名あり、慶廣の弟と、慶廣の六男がそれである。慶廣の六男は幼名を岩丸、初名を等廣、のち景廣と称し、出家して快安と号した。万治元(1658)年、59才で没している。正保4(1647)年に、本書と関係の深い新羅大明神御縁起をあらわしており、本書の作者も同一人物を考えられる。

北海道編『新北海道史 第7巻史料1』1969年 p.4

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