同八日美士■1被2鮑丹3両艘共当澗
より退帆いたし候兼而より彼等之舟
見物不相成趣被申渡候得共長々之憂
晴同様ニ差心得高見并山背泊ヘ
人々沢山ニ出会いたし候夫々段々諷
去リ根越辺迄行候と存居候所俄
モヤ相掛リ右モヤ兀かゝり候所又候
矢不来沖ニ両艘とも相掛リ夫より色々
之噂有之候得共取にたら寸又々橋舟
ニ而応接方代嶋様参リ候否退帆ニ
相成市中一統安心いたし是迄
隠れ居候婦人子供漸々と蔵や
家々之奥より出かけ安堵思を致し候
店方之義者それゝニ店開キいたし候
出舟之前日所々江立置候籏不残取
弁天社反リヘ背印壱本相立白キ
もの塗リ是等ハ万人之為を思ひ候哉
又々彼等か眼印ニ候哉如何共難斗候
後日御役人様御改之趣ニ候
是迄アメリカ人買もの代凡千六百両位
一 二百 三百 四百 五百
ワン テウ スレム フキノ ハヒノ
六百 七百 八百 九百 千
セキノ せウン ナコン エテ テン
五月九日亀田村七重浜有川茂辺地
富川辺江御詰之御人数箱館浄玄寺ヘ
不残引取何れ舟渡しニ相成可申候
同日御公儀様御役人様御当所より松前江
相廻リ候評義ニ候所直様ユウフツ越ヘ之様子ニ
相成
金三分
(硬貨の写し)
銀三匁
(硬貨の写し)
銀壱匁七分
(硬貨の写し)
裏か
(硬貨の写し)
表か
しら寸
此通用
■■■■
銀七匁
(硬貨の写し)
裏か
(硬貨の写し)
表か
しら寸
此通用
聞■■
右之金銀ニ而凡千六百両価程も御当所
ニ而諸品買求退帆いたし候
船番拾人 筑前足軽拾人 棒 ○印ハ
魯西亜人なり
魯西亜国旗壱本
壱人籏持三人付添
町司拾人 同 足軽拾人 棒 △ヘ続く
△ 御役所附三人 十九人
音楽方 剣付筒
拾八人 前立壱人剣持
御役所付三人
△通辞三人
士官
使節 国王より書翰 士官
士官
通辞三人
△ 三人沓四人 筑前足軽十七人 棒
曲録持
乗物拾三人挺 筑前物頭騎馬
沓持
五人曲録四人 筑前足軽十五人 棒
△ 筑前
鉄炮組五人 同 足軽五人 棒
〃
同組五人 同 足軽五人 棒
右者丑年八月十九日長崎表江渡来之
魯西亜如此之行列之趣ニ間何等之訳か
相知リ不申北蝦夷地カラフト嶋ヘ上陸
の訳も可有之候
五月五日御着之御役人様御城下表江相越夫より
宗谷ト承リ候所御用急キニ候哉当所より茅部
鷲ノ木迄十一日ニ出立ニ相成夫より場所宗谷迄
御人足之義者箱館市中より鷲ノ木迄
百五十人参リ然ル所人足之義ハ大野より返リニ相成
十日アメリカ一条ニ付御骨折之御役人
一統ヘ御家老松前勘解由様より御言葉
有之候 五月十五日四ツ時出帆夜モロランへ着
十六日朝出立
嘉永七甲丑年夘月中ノ五日巳之上刻
細東風ニ而三艘連汐首より二里程澳
合諷来リ同下刻山背泊ヘ入港之節
橋船相下ケ測量いたし振掛リ御台場より
十丁余沖合ニ振掛リ豆州下田より之
御書付応接方ヘ相渡候趣外弐艘も右之通
五月五日早朝出帆 乗組三百人余
黒船
船名
ハンテリヤ
諷多4利亜
長サ三十弐三間
幅 八九間
船主ホクト
夘月十五日前同所押付御台場十弐三丁
澳手ヘ相掛リ三艘中之大船之造リ方
大丈夫ニして鉄炮其外厳重之備方難蓋
言語候翌十六日三艘之内より遊舟両艘漕出し当澗之内
測量いたし三艘とも澗入者不致沖之口
御役所ヘ十七人程上陸いたし大将体之
もの五十六七歳外ニ役人体之三人其節
願之品 鶏 玉子 韮 其外 青もの
魚類 翌十七日未之下刻三艘とも澗掛リ
此舟澳手ヘ相掛リ乗組弐百人程
五月五日当澗出帆之図中白
船名 ニシタラ
馬士多厄
船主 アプラ
長 三十五六間
幅 十間余
高サ水際ヨリ
壱丈七八尺
夘月十五日巳之下刻鰪澗七八丁沖合ニ
相掛リ三艘中之小舟也乗組百七八十人也
至而気荒くして礼義無之此舟侍分之
もの不足なるか同廿八日当澗退帆いたし
エサン辺江参リ候趣定而エサン硫黄之
燃上リ見及彼石炭と心得候哉依之
茅部海辺一統心配いたし女子児山手ヘ
引去リ候趣何ニ付而も厄介申斗無之候
図之如く鉄炮口囲ひ作り方大丈夫ニ
して舟の浮キ足よろしく汐掛リ澗掛リニ
不抱同舟中より海岸近く相掛リ当澗
滞舟中乗組之もの上陸いたし自儘
有之候
船名
フハンテン
脩嗿嗷
船主ポヨイ
長サ廿七八間
幅 八間余
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