新羅之記録

資料集

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『新羅之記録』(書誌情報は、以下のとおり。)のテキスト化した。

コマ番号1

新羅之記録
    市立函館図書館編

コマ番号2

昭和十二年十一月三日
 新羅之記録
      市立函館図書館

コマ番号3

(空白)

コマ番号4

新羅之記録

コマ番号5

新羅之記録 河野氏後裔在奥尻島
        松前森松蔵
(写真)

コマ番号6

(写真)
新羅之記録=巻首と巻末

コマ番号7

捐館 高峰院殿加屋凌雲大居士 神儀
(写真)
夫三界長途法徳爲目足六趣迷道爲良燈表題尊號往
古函館城主河野加賀守正道石碑也 倩尋亡日何月
何日况逝去不明余此館當國造營得時道公鑑古城亡
君來追福無法號患仰尊 表題贈尊號四月八日忌日
永代寸志寄附祠堂例月八日於當精舍無量壽法一百
萬唱乞善縁亡君連信自他平等光益乞願而己
 寳暦三稔癸酉林鏡佛日 願主酒井氏喜澄謹記焉

コマ番号8

   新羅之記録刊行に就いて
 新羅之記録は又松前國記録の名を以て寫傳せらる。北海道最古の記録にして
正保三年の脱稿に成り、著者は松前家の中興五代慶廣の第六子景廣なり。父慶
廣の母は宇須岸(箱館)の館主河野加賀右衛門尉政通の孫なり。永正九年の蝦
夷亂に父河野彌次郎右衛門尉季通陣歿の時(一本木は其墳にして後町名となり
明治六年十月廢して今若松町と云ふ)僅に三歳、乳母に負はれて大館(今の福
山)に走り、蠣崎氏に據る。後松前家四代季廣の配となり、慶廣等を生み慶長
六年十一月二十二日九十二歳を以て畢る。傳妙院見身自性大姉と謚る。翌慶長
七年慶廣の第六子生れて三歳、偶慶廣、母の祖父加賀右衛門尉政通の夢告を享
く。依て其子を加賀右衛門と呼ぶ。後美作又伊豫と改む。是れ河野氏が伊豫の
越智氏に出づるが爲なり。晩年髮を下して快安と號す。嘗て幕府に呈出せし松
前氏の系譜を書寫し、父慶廣の記録を參照して此一卷を成し、正保三年秋敦賀
に航し、三井寺の新羅大明神の社殿に納めたるものなり。然かも本書の原本は
暫くその所在を失へるを、第一回函館港祭を擧行するに當り、遙かに後商を奧

コマ番号9

尻島に發見して、原本の所在を確かめ、今次の道南郷土文化展覽會に出陳する
事を得たるものなり。然して我が函館は本道和人最初の移住地として、曩きに
庭訓往來に宇賀之昆布の名を載せ、又秦億丸は貞治六年の古碑を發見し、今又
新羅之記録を得て、宇須岸時代箱館繁華の一端を探究し得たるは、實に欣快に
耐へざる所なり。
祭かも本卷には著者快安の校訂書入裏書等を有し、加ふるに本館には別に松前
史學の第一人者蠣崎廣長の書入本を藏するに依り、之等を參照校訂し、更に河
野氏關係資料として、その後裔松前琢磨の履歴書及秦樟丸所著にかかる蝦夷嶋
奇觀中、河野氏並に箱館に關する部分を抄出し、以て之を鉛槧に附し、第三回
函館港然記念事業の一端とし、郷土史學界に送らんとするものなり。
  昭和十二年十月十日
           市立函館圖書館長 岡 田 健 藏

      新羅之記録 上巻
八幡大菩薩從
天照皇大神六代 神武天皇之後三十代欽明天皇之御宇三十年豐前州宇佐郡厩峯
菱潟池畔民家兒三歳託曰我是第十六主譽田天皇廣幡八幡也 我名護國靈驗威神
大自在王菩薩諸州諸所垂跡於神明今顯坐此地耳、因之勅建祠奉崇宇佐 八幡大
菩薩也人王五十六代 清和天皇之御宇貞觀元年大安寺行教和尚詣宇佐宮一夏中
晝誦法華夜唱
大菩薩御本地之名號御 大菩薩託曰、行教歸洛我隨行而護王城、其後行教著山
崎夜夢 八幡大菩薩告曰、行教見我住所夙起見東南之男山鳩嶺上有大光明、依
驚奏 勅建祠奉崇岩清水 八幡大菩薩成源家之氏神給
新羅大明神之現來日城御事三井寺之初祖智證大師圓珍者讃岐州那珂郡之人而父
者和氏宅成母者佐伯氏弘法大師之姪也母儀之夢中乘舶浮海仰見朝㬢其光爲赫熾
擧手欲把之者俄飛入口中夢覺語夫聞而必生貴子云母儀頓在懷孕弘仁五年月日時
誕生給有兩眼重瞳不更凡夫之類天性明敏而猶老成人矣八歳之時向父曰可有内典
中因果經願使我誦習父聞是驚異而則尋得賚之悦預而朝夕讀誦給十歳而讀毛詩論
語漢書文選也十四歳而辭家而上都十五歳而比叡山延暦寺之義眞和尚之爲御弟子
十九歳而受菩薩戒而爲大僧聞其名天下給 仁明天皇之御宇嘉祥三年春夢山王大
明神告御入唐求法同四年春亦夢 山王語曰求法忘身必有冥助今是利渉之秋也依
之三十九歳而 文徳天皇之御宇仁壽三年秋乘唐商欽良暉之舶渡唐之時詠歌
  法の船さして行身そもろ〳〵の
    神も佛も我をみそなへ

コマ番号10

八月十五日著唐福州矣其比在相唐之開元寺天竺那闌陀寺之般若怛羅三藏傳授兩
部之秘法印明教經等給也大師在唐六箇年中忘寢食傳授顯密二宗之奧儀同御宇天
安二年夏乘唐商李延孝之舶歸朝之洋冲而恠姿之翁一人忽然現舶舷我是新羅國之 ※1
神也誓而護持師之教法至慈氏之下生語止而形隱給大師歸朝之後欲置傳來之經籍
求勝地御時 新羅大明神出現給日域中有一勝地建院宇〓此典籍可我鎭護而共到
給近州滋賀郡三井之園城寺粤教待和尚相看大師如故舊又檀那大友夜順磨呂朝臣
來向大師云教待和尚日者曰當寺之主巳生亦有時曰入唐今朝曰寺主來然則奉待久
矣與教待和尚共以寺券奉付大師也教待和尚懇語寺之縁起我知汝之來此所一百餘
年間奉行慈尊待師久開基此地而可興隆佛法而讓渡本尊後形隱不見 新羅大明神
曰可ト我居於寺之北野也其時百千眷屬神來集而令圍繞又有乘輿人儀衛甚多以美
饍饗 新羅大明神乘輿人形隱不見御大師向大明神問今之乘輿者誰 新羅大明神
曰是三尾大明神也則建祠於寺之南在我者北可擁護故建三井寺之北野於 新羅大
明神之祠而靈威益新在也
新羅大明神之御和歌
  唐舶にのり守りにと來しかひは
    在けるものを爰のとまりに
文徳天皇第二太子 清和天皇第六之王子、桃園貞純四品親王之御子、六孫王鎭 ※2
守府將軍上總介經基公之代、人王六十二代村上天皇之御宇、天暦九年六月十五
日始賜源姓而嫡男攝津守鎭守府將軍滿仲朝臣之四男河内守鎭守府將軍頼信朝臣
之嫡男、伊豫守鎭守府將軍頼義朝臣以一男八郎丸加三井寺之智證大師圓珍之門 ※3
徒錦織往生山之行觀僧正之御弟子號西蓮房快譽阿闇梨、治暦元年八月十五日夜
快譽阿闍梨之詠歌

※1
天安二ヨリ正保迄七百六十六年
※2
嘉祥三年清和天皇御誕生 元慶
四年季冬初四日崩御三十一歳智
證大師ハ者景行天皇十五代之苗
胤也 寛平四年十月二十九日智
證大師入滅七十八 正保三迄七
百三十四年
※3
天暦九ヨリ正保三迄六百六十九

  中〳〵に此夜の月は出て見し
    こゝろにかゝる雲もこそあれ
頼義朝臣以三男義光朝臣爲 ※4
大明神之氏子故號新羅三郎也
人王七十二代白河天皇之御宇永保元年春、舍兄八幡太郎陸奧守鎭守府將軍源義
家朝臣進發奧州御時於奈古曾之關詠歌
  吹風をなこその關とおもへとも
    道もせにちるやま櫻かな
攻將軍三郎清原武衡同四郎家衡給粤義光朝臣其比者左兵衛尉而守護大内候京都
聞此合戰半之由辭朝廷警衛之當官解置弦袋於殿上急馳下加義家朝臣之陳同三年
九月十七日亡朝敵遂本意上洛給者被勸賞賜甲斐國也老後剃髮雖生武藝不覊之家
常懺放逸旡愧之業自若冠之時誦法華經毎日念佛唱一萬遍也、誦法華二千部奉資
過去二親其余廻向法界衆生不限卷數、又逐日必披見往生要集隨時不定枚數、然
而園城寺裡建立道塲造顯丈六阿彌陀佛即營逆修善根、其後大治二年十月一日雖 ※5
有病氣不怠念佛、至同十九日相對嫡子三井寺之金光院阿闇梨覺義并二男進士廷
尉義業曰吾明日不可過處分資財兼告臨終行儀也、至廿日病腦平復俄以沐浴着新
衣居淨席漸及末尅對本尊結手定印唱口念佛引五色絲奄然以氣絶于時八十四歳
以嫡男金光院刑部阿闍梨覺義加三井寺之智證大師之門徒 ※6
三男刑部三郎義清朝臣代入部甲州號武田也、義清朝臣嫡男大學助清光朝臣之二
男太郎大膳太夫信義朝臣之四男伊澤五郎武田伊豆守信光朝臣者治承四年頼朝卿 ※7
揚旗給時十月十四日武田安田之人々赴駿河國經神野春田路至鉢田邊爰駿河之目
代長田之入道橘遠茂卒多勢赴甲州處不意相逢、此所境連山峯道峙盤石間不得進
於前不得退於後、然信光朝臣進先登勵兵法刀攻戰遠茂暫時雖防戰終打負而被虜

※4
御朱雀御宇寛徳元甲申年義光朝
臣出生ヨリ正保迄五百八十二年
※5
崇徳御宇大治二ヨリ正保三迄四
百九十六年
※6
爲明王院公胤
僧正之弟子
※7
信義母手輿遊女與逸見太郎
光長同胞兩子也光長巳刻生
信義午刻生大膳太夫
信光法名光蓮右大將頼朝之時
賜石和庄號石和五郎又
號伊澤

コマ番号11

同子息二人討捕、依此勳功賜石和之庄而後爲甲斐國守護繼武田之家督矣、亦文
治二年賜安藝國之守護也從信光朝臣相繼而小五郎治部大輔信政朝臣、伊豆守信 ※8
時朝臣六郎伊豆守時綱朝臣彌六郎伊豆守信宗朝臣彦六郎陸奧守信武朝臣、伊豆
守氏信朝臣、陸奧守信在朝臣之二男伊豆守信繋朝臣之代 大將軍左大臣義教公 ※9
賜若州故慶嘉元年從藝州入部若狹國數代令繋榮也依昔者令守護甲斐國若狹國安
藝國謂三武田今者遺苗裔於此國也
夫智證大師者讃岐州人而唐歸朝之時 新羅大明神現來御我祖母之先祖河野之家
者伊豫州同四國人也、亦有古傳曰八幡殿之家紋者捧白色、白則金姓、新羅殿之
家紋者〓菱捧黒色、黒則水性金與水者相生矣、亦北方者是根元水也、此國者有
日域之坎矣、今在狄島松前 新羅大明神之氏子時廣父子奉勸請事家紋〓菱水性
令相生云〓云〓可謂奇特事也
神武天皇正統十五世之孫
應神天皇八幡大菩薩正統十八世之孫
人王五十六代惟仁親王清和天皇七代之苗裔新羅三郎刑部烝常陸守義光朝臣正統 ※10
十五代之後胤
 當家之元祖信廣朝臣以來代々年譜并名譽奇特之記
松前當家之元祖鎭狄大將武田彦太郎若狹守新羅氏信廣朝臣者、若州之屋形第一
代武田伊豆守信繋朝臣在男子三人、嫡男治部太輔信榮朝臣就令保世無繼子、二
男大膳太夫陸奧守信賢朝臣繼家督、而依有信賢朝臣遠慮乎使一子之信廣朝臣爲
舍弟國信朝臣之養子、欲讓家督於大膳太夫國信朝臣之處、以令信廣朝臣牢人幸 ※11
國信朝臣之息男治部太輔信親朝臣繼若州武田家督矣肆信廣朝臣者爲國信朝臣之
子云也
信廣朝臣者禀性大力強盛而爲勇氣麁豪之間、信賢朝臣與國信朝臣共思且

※8
御鳥羽御宇文治二ヨリ正保三迄
四百三十七年
廣長按 信在宜作信滿乎
※9
御花園御宇嘉慶元ヨリ正保三迄
二百四十九年信繁治部少輔事
勝定院殿普光院殿嘉慶二年十
一月二日若州而逝去號寶泉
院道號日山法名長光 信守治
部少無嗣子故讓家督於弟信
繁號光明寺道號輝溪法名祐
光 信在刑部太輔號炅化寺道
號見外法名乘光 氏信後改信
頼刑部大輔甲斐國守護事鹿
菀院殿號慈善寺天龍寺供養
之時隨兵之先陣 信武伊豆守陸
奧守甲斐國守護九州探題事將
軍尊氏卿康永四年天龍寺供
養時爲隨兵延文三年四月二
十九日尊氏卿薨因之信武出
家號八福寺
※10
廣長按 廣字上景字アランカ
※11
三代國信治部少事慈照院殿常
徳院殿延徳三年六月廿一日逝
去號玉花院道號功林法名宗
勳若州二代信賢事慶雲院殿慈
照院殿文明三年六月二日逝去
號大通寺道號大人法名宗武
信榮事普光院殿永享十二年
七月廿三日若州而逝去號長
福寺道號天游法名光藝

國不得止事合心義絶而欲令已曁生害之刻、家老之數輩就哀惜遁其難召具家子佐
々木三郎兵衛尉源繋綱、郎等工藤九郎左衛門尉祐長其外侍三人而信廣朝臣二十
一歳之秋、寳徳三年三月二十八日密出國於夜中、是併依繋綱與祐長之計略也、
下關東足利少時住享徳元年三月來奧州田名部知行蠣崎而後 伊駒安東太政季朝 ※12
臣同心八月二十八日渡此國矣、爰在蠣崎修理太夫季繋云者、是生國若州屋形武
田伊豆守信繋朝臣近親者也、然季繋有其過立去若州乘商舶來當國而 爲安日政
季朝臣之聟號蠣崎修理太夫住上之國所副置信廣朝臣河南花澤居館也
抑往古者此國上二十日程、下二十日程、松前以東者陬川西者與依地迄人間住事 ※13
者右大將頼朝鄕進發而追討奧州之泰衡御節、從糠部津輕人多迯渡此國居住、彼 ※14
等結付薙刀於舟舫爲櫓櫂漕渡故將其因縁當國艋舴之車櫂者象薙刀云、奧狄舟近
世迄造櫂於薙刀之象也、於今奧狄之地彼末孫爲狄在之云云、亦實朝將軍之代強 ※15
盜海賊之從類數十人搦捕下遣奧州外之濱被追放狄之島渡黨云者渠等末也、亦其
以後嘉吉三年冬 下國安東太盛季落小泊之柴館渡海之後慕跡數人來住於今其末
孫之侍共在之也、中比内海之宇須岸被攻破夷賊事者、有志濃里之鍛冶屋村家數
百康正二年春乙孩來而令打鍛冶於劘刀處、乙孩與鍛冶論劘刀之善惡價而鍜冶取
劘刀突殺乙孩、依之夷狄悉蜂起而自康正二年夏迪大永五年春破東西數十日程中
住所村々里々殺者某事起元於志濃里之鍜冶屋村也、活殘人集住皆松前與天河
下國安日盛季朝臣其先祖者他化自在天王之内臣安日長髓從天下此國居住大和國
伊駒山雖令成 神武天皇爲國諍軍不利被虜改其名於醜蠻配流東奧津輕外之濱安
東浦、彼安日長髓之末孫押領津輕住十三湊繋昌、然處安東太盛季之代爰南部大
膳大夫源義政者征夷大將軍義教公攻一家之鎌倉左馬頭持氏朝臣給、永亨十一年
義政攻破鎌倉之大手口二月十日持氏朝臣令生害御時依爲義政拔群之忠節義教公

※12
廣長按 蠣崎季繁到着之年月日
尤不詳意者以爲政季之婿考
之則康正前後來于松前乎
同心此所同三年ノ字アランカ
※13
廣長按 松前年代記以是歳
爲首端
※14
廣長按 糖部即南部古名也
※15
廣長按 新井白石之説以是年
爲元祖信廣入國之初者非也

コマ番号12

賜糠部五郡而入部、同十二年娶十三之湊之盛季朝臣之息女而後義政從糠部行十
三之湊對面舅盛季還途中而津輕者増聞善所矣度々云于時同朋蓮阿彌近差寄度々
褒美津輕御事如令望彼者可廻籌策云歸後時々參義政之簾中蜜十三之湊家老其余
之侍共有何故乎向後者可頼入義政之旨頻申實奇怪事也云又弊形替粧忍行十三湊
認計策文落之從義政之簾中者遣文於親盛季告家老諸侍等之叛逆之由給間〓巳令
符合盛季朝臣家運盡所誅伐始家老其外善侍數十人、此節義政出張而嘉吉二年秋
攻破十三之湊而乘取津輕盛季沒落而雖左右舘籠以爲無勢不克防戰被追出去小泊 ※16
之柴舘同三年十二月十日欲北渡狄之島之處爲冬天者順風不吹及難儀、粤道明法
師仰天俯地碎肝膽忽有天之加護巽風吹出船、從跡軍兵追來共依浮船洋冲不及力
引退、盛季遁蹈虎尾之難而渡海、彼道明法師奉負鑄像之觀世音大菩薩列伴怖畏
軍陣中念被觀音力衆怨悉退散之誓約顯而此島之著岸是偏永善坊道明法師之致懇
祈之謂也此觀世音大菩薩之尊像者於今在永善坊從其時云十二月十日之巽風於道
明巽風也
盛季之息男安東太康季朝臣文安三年從狄之島雖渡入津輕不運而病死矣又康季之
息男義季寳徳年三年催糠部松舘之人數而舘籠鼻和郡大浦郷之處享徳二年被攻南
部之軍勢而生害又祖父盛季依逝去下國之惣領家斷絶畢            ※17
伊駒政季朝臣者十三之湊盛季之舍弟安東四郎道貞之息男潮潟四郎重季之嫡男也
十三之湊破滅之節若冠而被生虜糠部之八戸而改名號安東太政季知行田名部繼家
督而蠣崎武田若狹守信廣朝臣、相原周防守政胤、河野加賀右衞門尉越知政通以 ※18
計略同三年八月二十八日從大畑出船渡狄之島也               ※19
出羽國湯河湊之屋形秋田城介安日堯季者十三湊盛季之舍弟西關安東二郎廉季之
孫也故以一家之舊好湊堯季朝臣康正二年呼越伊駒政季於小鹿島運籌策而取河北

※16
廣長按 南部系譜義政其第十四
世也嘉吉紀元酉秋七月卒此書釋
氏所妄作已下亦妄談甚多矣着者
察諸
※17
廣長按 下國惣領家三代而斷絶
矣又茂別八郎式部家政者政季之
弟也下國家以道貞可爲始祖廣長
曰下國氏古系譜ニ道貞カ弟ノ加
クカケルハ系法ヲミタレルナリ
※18
御花園御宇享徳三ヨリ正保三迄
百九十三年
※19
廣長按 元入國之始明干此也矣
盖上説尤非也

郡渡安東家矣、息男忠季之代葛西出羽守藤原秀清沒落而自明應四年知行河北千
町成檜山之屋形繋昌給
抑狄之島古爲安東家之領地事者知行津輕在城十三之湊而雖隔海上依爲近國令領 ※20
此島也政季朝臣越秋田之小鹿島節、下之國者領舍弟茂別八郎式部太輔家政被副
置河野加賀右衛門尉越政通松前者預同名山城守定季被副相原周防守政胤、上之
國者預蠣崎武田若狹守信廣副置政季之婿蠣崎修理大夫季繋夫々令守護夷賊襲來
處、長祿元年五月十四日夷狄蜂起來而攻撃志濃里之舘主小林太郎左衞門尉良景、
箱舘之河野加賀衛門尉政通、其後攻落中野佐藤三郎衞門季則、脇本南條治部少
李繼、穩内郡之舘主蒋土甲斐守季直、覃部之今泉刑部少季友、松前之守護下國
山城守定季相原周防守政胤、禰保田之近藤四郎右衛門尉季常、原口之岡邊六郎
左衛門尉季澄、比石之舘主畠山之末孫厚谷右近將監重政所々之重鎭雖然下之國
之守護茂別八郎式部太輔家政上之國之花澤之舘主蠣崎修理太夫季繋堅固守城居、
其時上之國守護信廣朝臣爲惣大將射殺狄之酋長胡奢魔允父子二人斬煞侑多利數
多依之凶賊悉敗北、其後式部太輔經中野路來山越於上之國會若狹守修理大夫有 ※21
献酬之禮、式部大輔家政者授刀 一文字 於信廣被賞勇功又修理大夫者授喬刀 來國俊 於 ※22
信廣、此時信廣朝臣者從若州差來進 助包 之太刀於式部大輔也
修理大夫無繼子故得政季朝臣之息女爲子令嫁信廣居川北天河之洲崎之舘仰家督
信廣朝臣爲實安東太政季朝臣之聟也
建立天河之洲崎之舘之北於毘舍門堂、抑承此毘舍門天王現來之縁起寛正三年夏
有天河舘之西海遙冲夜々光物、然信廣朝臣見之爲奇異思使祈願所之圓増院秀延
阿闍梨闚見此光物圓増日暮而出西浦見之光物隨阿闇梨之歩行近寄來阿闇梨乍怪
怖引上平砂前抓拂藻屑見之在毘舍門天王之像依奉守歸而令拜見信廣朝臣奉善々

※20
廣長按 松前大館也 下國系譜
中無定季疑家政之親族乎
※21
廣長按 中野路在幾古奈伊

※22
廣長按 一文字者菊一文字乎

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