鈴木周作抄訳『ペルリ提督日本遠征記』,大同館,1912年(抄)

資料集

国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『ペルリ提督日本遠征記』(鈴木周作抄訳,大同館,1912年)のうち、「第8編 函館の巻」について以下のとおり紹介する。

なお、本書の概要については、以下のとおりである。

1856年合衆国国会の命によって発行せられし代将官エム・シー・ペルリの合衆国日本遠征記(United States Japan expedition by Com.M.C.Perry)の第一巻を抄訳せしものなり。

凡例p.1

※ページの区切りで段落を改めている。

第8編 函館の巻

1 5月17日函館投錨

5月17日の朝9時ポーハタン号はミシシッピー号と共に函館港に錨を卸した。日本の役人が五六人直ぐポーハタン号に漕ぎつけて船へ上って来たので、提督は日本の欽差委員から受取った手紙と、漢文で認めた条約書とを彼等に差出すと、彼等は函館で亜米利加人と会見すべき任命を受けた役人が未だ江戸から着かぬ事や、何等の予告もなく突然軍艦が着いたので、人民が非常に怖れた事や、条約の調印も、下田開港も未だ聞き及ばぬ事なども述べ立てた。然し其時日本の役人に、提督は明日部下の士官を代理として陸に派見し、種々協議する考であると通じて置いた。
昨日の予告通り、翌18日の朝、旗艦長は通訳のウィリアムスとポートマンと提督

秘書官とを連れて函館奉行を訪問した。一行が官衙に着くと、奉行遠藤松左衛門?は幕僚の伊坂健蔵?工藤猛五郎?の二人を伴って出て来て、丁重に一行を迎へて立派な広間に案内した。奉行は40前後の重々しい容貌をした、温和な恭謙な人柄であった。同伴の二人は長官の前ではペコペコして居たが、矢張日本紳士の好標本とも云ふべき人達であった。給仕は始終出たり入ったりして、お茶や、菓子や、煙草などを運び、奉行と幕僚とは熱心に客を待遇した。
其時亜米利加士官は、此度提督が函館に来航したのは去、3月31日に神奈川で日米両国の間に協約された条約の規定を実行する為で伊豆の下田に於けると同様に、函館にても亜米利加人が町の内外、又商店、寺院等の公の建物に何たるを問はず、何処へでも自由勝手に出入し往来する特権を確定し、商店、市場にて物品の売捌を公開する事、並びに双方の便利を謀って当座の通貨を定むる事、次には提督士官及び遠征に随行した美術家の駐在所として寺なり家なり3個所官憲より選定する事、又土地の物産を相当の代価にて軍艦に供給し、其の他亜米利加人の珍しいと

思ふ蝦夷の産物や、博物の標本を之亦相当代価にて供給される事などを協定したい為であると語った。奉行は之を聞いて、兎に角江戸から役人の着く迄待って貰ひたい、斯う到着の後れるのは、江戸函館間の距離が遠い為で、冬ならば37日、夏の日長でも30日はかかるなどと話して、自分は提督の差出した手紙に書いてある通、亜米利加人を歓迎して良く待遇し、薪水及料食を艦隊に供給するより外に、何等特別の権能を持って居ないのであると赤地に述べた。然し亜米利加士官は自己の主張を固辞して動かず、奉行も亦之に異議を唱へて応じなかったので、結局論争の末、函館官憲の意向は之を手紙に認めて、明日提督の手許に差出すと云ふ事に落着した。案の如く翌朝次のやうな手紙が奉行の許から届いた。―――

函館は遠隔偏在の地で、住民は寡く、且無智である。此の頃貴艦が此の地に着くや、地方官が逃散してはならぬと命令したにも係らず、老弱相携へて深く内地に逃げ込んで了った。貴艦が此処へ来たのは、疑もなく土地広く其上良く開けて居ると思ったからで、毛頭掠奪や侵入の考があるのではてないのだが、無智なる

一般の人民は、唯訳も無く愕いて了って、何処となく影を隠して帰って来ぬ為、何と言って諭す事も出来ぬのである。彼等の臆病な事は其の持前で、昨日貴方達が町を通って御覧になった通、落ちついて仕事をして居る者は一人もない有様である。謂はば此の地は弾丸黒子のやうな狭い処で、付近の土地も不毛で殆ど何物をも産せず、食料其の他の須要品は悉く他地方から仰ぐやうな訳で、下田や浦賀のやうな豊穣な土地とは全く異って居るから、貴方から受取った目録にある熊皮、乾魚、魚油、鮭、鯣、昆布、塩鮭なども少いから、多分十分に希望に応ずる事が出来ないであらう。又昨日の陳述によれば、3月31日に、横浜に於て両国大官の間に条約が結ばれた結果として、函館にても下田に於けると同様に、売買の事並びに三軒の駐在所を定める為に来訪したとの事であるが、条約が締結されたと云ふのに、此に関して江戸の政府から未た何等の命令も通知も来ないのは意外であるし、且又貴艦が浦賀から齎した手紙にも、此の点に就いては一言も書き及んで居ないし、今初めて貴方から聞いて知った次第である。然し政府から指

図を受けぬ内は、何事も自分勝手に取計らう事は出来ず、苟くも国家に関した事は大なり小なり国守に相談し、国守は之を将軍に具申し、特別の指図を得た後に初めて執行ふのである。此は貴方達が既に横浜と下田で経験した所で、我国の慣例とも法律とも謂ふべきものである。次に申込みの鶏卵、鶏、鴨、練魚其の他此の地にある食料品の買入れ、市内見物、又村落、市場、商店に出入する事は一時許可し、必要の品物は供給致します云々、

旗艦長は此の手紙と共に、明日松前家の大家松前勘解由が提督を訪問する都合であるとの注進を奉行から受取った。

2 噴火山の爆発

此の談判があってからは、艦隊の士官は毎日上陸して自由に市内を歩き廻り、商店や寺を訪問れ、或は近在の田舎を漫歩した。数回談判を重ねた末、三軒の駐在所も選定せられ、其の内の一軒は提督の使用に他の一軒は士官の、夫から第三のは美術

家の使用に当てられた。公売所は毎日開かれ、此処で日本製の色々の品物が相当の価で売捌かれた。而して日本の1分銀3個に殆ど当る亜米利加の1弗は銅銭4800の割で融通した。此のやうに陸上では極めて自由に交通したので、我々直ぐ函館にも其の住民にも馴れて了ったのである。
函館は戸数千戸余で、人口は7千内外、其の位置地形がジブラルタルに酷似せるには誰も驚いた位である。
5月19日の午後提督は一時旗艦をミシシッピー号に移して、松前侯の大官松前勘解由の来艦を待って居ると、兼ねて予告があった通に、大官は函館奉行遠藤松左衛門、支那通詞伊坂健蔵以下数人の御伴を連れて来た。相互の挨拶が済むと、提督は、松前侯は何時頃函館へお出でになる都合であるかと尋ねた。勘解由は之に答へて、夫は申兼ねる、松前侯は只今松前に居るし、別に又何時来ると云ふ音信もないからと言った。若し松前侯が此処にお出にならぬならば已むを得ず私が其方へ行って面会します。函館には条約の事に就いて相談すべき人は一人も居らないから

と提督が注意すると、勘解由は、松前侯は松前を離れる事が出来ぬに依って最高の大官を代理とし、提督に会見して条約の実行を図る為に此処へ遣した次第であると答た。其処で提督は勘解由に此の事柄を取定めるだけの十分の権力を持って居るか否かを尋ねた。すると勘解由は、自分は此の地方の一切の権力を帯びて居るが外交に関した事は総て江戸政府の指図が無ければ、自分は言ふに及ばず、領主の松前侯と雖も勝手に定める事が出来ないと答へた。
其の時俄に風が吹き出して、波が非常に高くなったので、直ぐ帰る事も出来ず、日本人は暫時艦上に留って居なければならなかった。其の間に彼等は種々の御馳走を振舞はれ、又艦内を隈なく案内されて珍しい物を観、非常に満足して帰った。
翌20日にはサウサンプトン号が噴火湾と、蝦夷の南西端70哩許にあるエンデルモー港(Endermoharbor)(訳註 室蘭?)との探検に派遣され其の日の夕方5時に噴火湾の南端に達したが折しも風が率然と静まったので、翌朝迄進む事が出来なかった。其の朝は又非常の濃霧であったが、船はエンデルモー港指して進行した。然し霧は

益々濃密になって、入口も判らぬ有様に、深く警戒を加へつつ陸地に沿うて走り、其の夜7時、とある村落の前面に錨を卸した。夜が更けるに従って霧が晴れて、数艘の伝馬船が3哩許先の大きな町の近くに碇泊して居るのが判然視えたかと思ふと、再び濃霧が襲ひ来り、翌日から引続いて其の儘であったので、慎重の態度を執って27日迄出帆を見合せた。其の日の夜明に初めて霧は所々から切れかけて、朝になると綺麗に晴れ渡りて、絵のやうに美しい景色が眼前に開け海に面した谷間には、無数の人家が塊って此処彼処に見えた。船は順風に帆をあげ、1時間9海里の速力で進んで行くと、大きな湾が眼の前に現はれた。嶺に雪を頂いた高い連山は桟敷のやうに円く湾を取巻いて、海面から聳え立った海岸の方へ漸次に傾斜して居る。湾の北東には二つの噴火山があって、盛に濃煙を噴出し、煙は風に吹き払はれて黒く棚引いたが、近傍の山巓には雪が太陽に射られて、銀のやうに輝いて居た。
オラソン島とて、嘗て我ブラウトン艦長の一部下の死骸を埋めた小島を過ぎて、サ

ウサンプトン号はエンデルモーの海峡に入り、其の夕方陸近く投錨した。其処には少しの人家があって、最寄の丘には砲台を設け、海岸には二三の小舎が建って居た。船が着くと直ぐ役人が2人小舟に乗って、アイヌと共に漕ぎ寄せて来た。而して船に達くと役人は米と木片と紙の包とを差出して、内を開いて見せ、同時に水を指し何か入用な物はないかと手真似て尋ねた。此の役人は侍らしい男で、外国人に対して明らかに親密を欠いて居たが、魚、野菜、鶏卵、鶏などがあれば買ひたいものだと云ふ意を通ずると、彼は承知したと言って小舟を陸へ遣した。やがて小舟が帰って来たのを見ると持って来たものは大黄の根のやうな物が一束きりで、時化の為魚は一尾もなく、其の代に鶏が3羽あるだけと云ふ挨拶であった。
翌朝探検隊は測量に取掛った。土地の住民の多くはアイヌ人で、彼等はサウサンプトン号の到着を非常に怖れて、総ての家財を背負って、山深く逃げ込むのが、船から見えた位で、土地は見る影もなくなって了った。跡に残って僅な日本の役人は追々と我々に親密になって、船へも屡訪ねて来て饗応を受けるやうになった。

エンデルモー港滞在中別に珍しい出来事もなかったが、或夜半突然或山が爆発して炎々たる火柱が高く天に立昇り、陸も海も忽ち白昼のやうになって、偉観云ふべからざる程であった。而して他の2火山は単に煙を噴出するだけであったが、新火山は猶火焔を噴き続けて居た。
サウサンプトン号の艦長は此処を出発する前にエンデルモー湾口にあるオラソン島に寄って、ブラウトン艦長が残した水夫の墓を訪ねて見た。墓は依然として其処に在った。最早17年前の事であるのに、日本官憲は遺跡を保存し、日本風の墓石を建てて死者を吊って置いて呉れたのである。今は探検も悉く終ったので、本艦隊に合する為、サウサンプトン号は下田を指して出帆した。

3 松前勘解由

勘解由から訪問を受けた翌日、提督は彼を訪問した。勘解由は松前侯よりの委任状を示し、松前侯の函館に来る事のむつかしい旨を懇に述べた。提督は彼を領主

松前侯の代理人と認めて、条約に規定されて居る特権の範囲問題を協定しようとしたが、彼は之を拒んで承知しなかった。最後に双方協議の上、此の問題は下田に於て提督に会見した前委員に依托する事に一決した。
亜米利加人が屡上陸する内に商人との間や、散歩区域や、其の他の事に就いて此迄面白からざる行違が折々起ったが、相互の説明によって誤解が取れ、其の結果互に良く了解が出来、両国民の間に最も親密なる感情が起るやうになったのである。奉行は部下の役人を連れて屡軍艦へ訪ねて来て、其の都度饗応を受け、又或時は盛なる午餐に招待せられ、水夫の余興を振舞はれ其の外彼等の珍しと思ふ物は悉く彼等の見聞に供せられたのである。
5月31日の朝マセドニアン号は下田へ、バアンダリヤ号は日本海を通って上海へ赴くべく命令された。蒸気船は猶函館に残って委員の到着を待って居たが、其の内に5月も暮れ、夫に6月15日には下田へ帰らねばならぬのに、委員が未だ来ないので、提督は多少焦立たざるを得なかった。所が6月1日の朝、日本、支那、和

蘭の各国語で書かれた、手紙が達いた。夫には幕府の役人平山謙次郎等の一行が幕府の命を受け樺太へ行く途すがら、亜米利加艦隊が神奈川条約の結果函館港の測量に来て居ると云ふのを聞き及んで立寄った、然し長官は既に海路樺太へ赴いて居るので、3日と後れる事は出来ないが、其の間に合衆国の委員に会って相談致したいと認めてあった。
提督は旗艦副官のベントを遣して、日本の代表者に会ひ、何時でも御都合の宜しい時ポーハタンに来て貰ひたいと言はしめた。すると午後1時にと云ふ返答であったので、其の時刻に日本の代表者を迎へる為短艇を派遣した。旗艦副官が奉行の館に行って提督の命令で代表者を迎へに来た旨を伝へると、昼飯を食べて居る処だと云ふ挨拶であった。夫から1時間以上も心棒して待って居ると、上官は2人の御供を連れて出て来て、短艇の方へは行かずに税関へ入り込んで、極めて鷹揚に腰を卸し、悠々と茶を呑み、煙草をふかした。副官が丁寧に最早出発する時刻であると注意したが、彼等は落ちつき払って、相変らず茶を呑んだり、煙草をふかして

居た。此の尊大不遜な態度は、礼儀正しく丁重なる此迄の日本人に比べて著しく目立って見えた。其の時副官は、最早短艇が出懸けますが、此で御出になるならば御案内致しませう。若し左様でないとしますと短艇はこれ限で帰って了うから貴方方御自身で御出を仰ぐより外はありません、其の上会見と定めた時間も既に過ぎて了った事故、提督が面会するかどうか之亦疑問でありますと、巧く場合を見料って言ったが、彼等は別に急ぐ様子もなく、唯一言同僚を待合はして居るのだと答へた。副官はもう何とも言はず別を告げて短艇に乗った。而して本艦へ帰る途中で提督から出した使者が何か相当の理由がなければ彼等を待って居るには及ばぬと云ふ命令を持って来るに出会った。副官が以上の次第を報告すると、提督は改めて人を遣さうと準備の命令を下したが、其の時日本の代表者が到着して舷門へ現れて来たので、副官は提督に代って、彼等に後れた理由を尋ねた。すると亜米利加使節への土産物を少し許買って居た為との事なので、事実を語ったものと認めて、彼等を提督の船室に案内し、此処で短い対談が取交され、其の間に饗応が

運び出された。日本の代表者は話の内に、函館に於ける歩行区域を決定する権力の自分に無い事を繰返したので、提督は此に関した交渉を中止し、総ての協議は下田に居る幕府の委員と会見する迄延ばさうと決心したのである。而して彼等が帰るに臨んで、提督は函館に於ける官民の親切と礼儀とに対して満足の意を述べ、同時に住民が猶亜米利加人を危惧して、依然家を鎖し、婦人を隠して居るのは遺憾であると附加へた。此に対して代表者は手紙を以て、戸を締めたり、婦人が影を隠したりするのは独り函館のみに限った事でなく、此は外国人を見慣れぬ日本人の習慣で、今直ぐ改める事も出来ないが、別に外に意味のある訳ではないと弁解した。

4 提督下田に帰る

他の船は夫々出帆して了ったので、後に残った2隻の蒸汽船ミシシッピー号とポーハタン号とは、最後の訪問をして挨拶や贈物を取交し、6月3日の黎明に函館を解纜して下田へ向った。其の朝霧が深く、蒸汽船は一時湾口に投錨したが、夜になら

ぬ内に再び錨を抜いて出発し、6月5日には大島の噴火山の煙が遠くに見え、続いて陸地も判然として来たが天候が、急変して雨霧が深く立ち罩めたので、丁度一昼夜後れて6月7日、即ち日本委員と会見を約束した僅か1日前に下田に着いた。航海中には別に珍しい事もなく、唯鯨の大群と黒潮の凄じく東に流るるのを見掛けただけである。其の日の正午ポーハタン号は僚艦ミシシッピー号と共に港内に入り以前の個処に投錨すると、間もなく日本の役人が旗艦に来て、丁重に提督の帰港を歓迎し、江戸から委員の到着して居る旨を伝へた。
提督は早く自分の仕事を片付けて了ひたいし、夫に今日迄の経験から見ても、日本委員の行動の埒の明かぬ事が想像されたので、副官を遣して、直接会見したいと申込ませると、只今委員達は町外に滞在して居るが、使を出せば直ぐ帰って来るから、明日の正午提督と会見するやうにしたいと云ふ返事であった。翌日提督は随行員を連れて上陸した。委員は之を寺で接待し、先づ新任委員都築駿河守、竹内誠太郎?の紹介があって後、委員長は下田が幕府の直轄となって、伊澤美作守と都築駿

河守とが奉行に、黒川嘉兵衛と他の一人とが副奉行に任命された由を述べた。而して此の新官制の結果として、管轄区域を定める為、垣壁を設けて町の境界を建てる必要があると委員は言明して、提督に左様云ふ物を設けても差支ないか、勿論其の境界内では亜米利加人の歩行は自由で、又境界外に出る時は唯許可を得さへすれば宜しいので、許可は何時でも雑作なく与へらるる次第であるが如何であるかと尋ねた。提督は条約の規定に違背せぬ事ならば、幕府が如何なる政策を採らうと夫に干渉しようと念は毛頭ない、但し条文に記載してある通7里以内を自由に歩行する件は承知して居て貰ひたいと答へた。而して軍艦からも士官を3人派出して、日本の役人と共に境界を定め、垣壁と門とを設ける役に当らしむる事に双方一致したが、提督は亜米利加人が境界外に出づる場合に一々許可を得ねばならぬといふ件に就いては堅く同意を拒んだ。
其の時又函館に於ける亜米利加人の歩行限界に関して大議論があったが、少しも決定を見るに至らなかった。日本の主張は亜米利加人を函館の市内だけに制限

しようと欲したが、提督は極力之に反対したので、問題は其の儘懸案として延ばされた。日本委員から申出した横浜に葬った亜米利加人の死体を下田に改葬する件、提督より注文した水先案内を港務官任命の件は双方で承諾して此の日の会見は終った。翌日も亦会見があって、再び函館に於ける限界問題が起ったが、決定は次回に延引する事になり、日本人が調へた饗応を受けつつ話柄は一般の事柄に移った。日本委員は合衆国の産物製造品の模様を珍しさうに尋ね、又支那の革命、魯西亜と土耳古との戦争などに就いて我々の意見を求めるのである。
其の翌日又会見が行はれ、函館の限界問題に就いて数時間の議論があったが何等決定する所がなかった。委員は新に亜米利加人が日没後陸上に留まるを禁じられたいと提督に同意を求めたが、是は断然拒絶せられた。
斯うして談判は6月8日から17日迄毎日続いて、其の結果12条の新規約が提督と委員との間に成立し、7里以内歩行自由の件、兵営及び個人の住宅以外は商店寺院出入自由の件、下田、柿崎及び他の一個処に上陸点を設くる件、下田の龍泉寺、柿

崎のヨクセン寺を亜米利加人の休息所に当てる件、和蘭通詞不在の場合を除く外は支那語を両国政府の公用語として用いざる件、港務官1名、水先案内2名を下田港に置く件、物品購入の際は、購入者は自分の姓名と其の代価とを誌せば、品物は掛の役人の許に廻され其処にて品物を金と引換に渡さるる件狩猟は一切厳禁の件、函館に於ては歩行限界を5里となす件などが重な条項であった。

5 倉蔵日本に留まるを肯せず

日本委員との談判も今は全然済んだので、提督は帰国の準備に取掛り、人を陸に遣って艦隊で買入れた品物の勘定などをさせた。試みに其の内の二三と代価とを挙げて見ると、
 鶏卵10個 14銭(訳註、現今ノ価ニ換算シモノ以下同シ)
 鶏1羽 74銭
 魚1尾 35銭より1円78銭

 大根2斗 25銭
 いも2斗 70銭
 長6間径8寸の材木2本51円
 長12間径1尺2寸8分の材木2本352円余
 長13間径1尺3寸6分の材木1本217円余
の如くであった。
又公売所は数日前から開かれ亜米利加人は日本へ来た紀念にとて色々の土産物を買入れたが代価が法外に高いので、提督は奉行伊澤美作守に抗議を申出した。すると通詞森山榮之助は、奉行の命を受けて旗艦に来て、公売所で売る品物の定価は江戸の幕府から定められたもので市価より上の事はないと弁解した。
退去帰国の日が近付くに従って、双方の交際は益々親密を加へて、立派な贈物が取交され、日本の役人からは大統領竝に艦隊の人々へそれぞれ贈物があった其の内には大統領へとして3匹の狆があった。提督は恙なく之を合衆国へ連れ帰って、其

の内の2匹は今でもヲッシングに生存へて居る。提督も亦2匹贈られたが、中途で1匹死んだので、本国へ持ち帰ったのは1匹だけであった。
提督の帰国するニ三日前に森山榮之助は五六人の役人と連れ立ってポーハタン号に来て例の日本人の倉蔵(訳註「サンパッチ」ト呼バレシ者)を日本へ残して置いて貰ひたいと求めたので、彼が残って居ると云ふ希望ならば提督は決して反対はしないが、此の事は総て彼の自由意心に委せなければならない事で、夫に又彼が日本を失踪して居たのを決して罰せぬと云ふ誓書を委員から頂かなくてはならぬと答へしめた。
然し倉蔵は難船に遭って生死の境に彷徨って居る内、神様の摂理によりて亜米利加人の手に救はれ、自から志願して軍艦の乗込員となり、今は亜米利加の一民として総ての保護を与へられて居るのであるから、提督も彼に日本に残って居れと強ふる事が出来なかった。其の時日本の役人は、倉蔵が残って居たならば残酷な目に逢ふだらうなどと取越苦労をするのは寧ろ滑稽で、日本の委員は喜んで彼に何等の刑罰をも加へぬと云ふ保証を与へ、直ちに彼を親族知人の許へ帰してやる迄

であと言った。其処で倉蔵は日本人の前に召び出された。日本人は言葉上手に熱心に倉蔵を説いたが、軍艦を出ようと云ふ心を彼に起させる事が出来なかった。畢竟之は彼が滞在中に、今自分が日本に残って居た所で、我身の独立安全は覚束ないと感付いた為である。然し長い間の習慣は恐しいもので、彼は日本の役人の前に引出されると、兢々と身を震はして、自国の習慣通に土下座をした。此の卑屈な有様を見たベント副官は、仮初にも亜米利加軍艦の甲板上で、合衆国の国旗の下で、人間の形を具へた者が、こんな賤しむべき追従をしてなるものかとて、彼に直ちに起上るを命じたのである。
倉蔵は乗込員の一人で、好人物な為、日頃仲間の人々からも可愛がられ、皆彼の不幸を気の毒がって居た。中にも水夫のゴーブルと云ふ信心深い男は殊に彼を哀な者に思ひ、倉蔵を一門の英学者に、同時に敬虔な耶蘇教信者に仕立てようと教育に懸って居たのである。其の後倉蔵はミシシッピー号で合衆国に帰り、彼の尊敬した友達でもあり、又帰依した先生でもあるゴーブルに伴はれて紐育(ニューヨーク)の田舎なる彼の

家に行き、其処で二人一処に暮して居るとの事である。
斯うして倉蔵が親切な友達から受けた学問智識を持って故国に帰ったならば、恐らくは日米両国の交誼を進むる手段ともなり、又日本の文明に裨益する所も大かったであらう。
倉蔵の外に又、カルホルニヤ州の海岸で救上げた数人の日本人を日本へ送り還す考で上海迄連れて来たが、皆日本へ行くのを怖れて、遠征隊に加はって此処迄来たのは倉蔵一人きりで、かく云ふ彼も兢々怖れて居たのである。
ミシシッピー号が支那へ寄って帰国の途に、就いた時、又一人の日本青年が合衆国へ連れて行って貰ひたいと申込んだので、其の望を容れてやった。此の青年の名前はダンスケビッチといふのであったのを、譚名好の水夫は直ぐダンスケッチ(訳註二本さん檣の小船の意)と呼び馴らして了った。然し此の位の譚名で済んだのは彼の仕合と言ふべきである。ダンは提督の世話を受けて居たが熱心に学問を励み、大に才能を顕した。現に彼が志す通に、今一段学問をした上で帰国したならば、我米国に就いて尠

からぬ見聞を携へて帰れるに違ない。

6 提督帰国の途に就く

提督は再び旗艦をポーハタン号からミシシッピー号に替へ、2艦は下田の外側に位置を移して、何時でも出帆の出来る用意をした。其の日森山榮之助は土産として博物の標本などを携へ、二三の役人と共に提督に別の挨拶を述べに来た。一行は船室に案内され、御馳走も直ぐ彼等の前に運ばれ、和気藹々たる談笑が卓子の周囲に起った。其の話の中に、下田で購った磔刑の様を画いた日本画を榮之助に示すと、彼は日本の刑罰の事を詳しく説明した。やがて日本はしみじみと別を惜しんで帰った。
艦隊の用意は総て出来て何日でも出発出来る。サウサンプトン号は6月10日に噴火湾から到着し、翌11日にはマセドニアン号も亦来着した。之に数個月永滞のサップライ号と新旗艦のミシシッピー号及びポーハタン号を合せて、艦隊の数は総

て揃った。其処で艦隊は更に外港に位置を移して、出帆の命令の下るを待つ許にして居た。
先日の約束通、地方官は港務長1名と水先案内3名とを任命し、提督の同意を得る為に連れて来たので、提督は其の任命に就いて満足の意を表し、港務長へは望遠鏡を1個与へ、始終望楼に備付けて置いて自分が役をやめた時は後継者に渡すやうに、又水先案内へは各自に上等な外套一着と、小さい亜米利加海軍旗を2振宛渡し、之を案内船に建てて置いて、船が港外に見えたならば直ぐ案内に行くやうにと言ひ添へた。
愈、1754年6月28日の朝全艦隊は錨を揚げて動き出したが、急に風が南へ変ったので、帆前船なるマセドニアン号とサップライ号とは再び錨を卸さなければならなかった。其の時提督は出発を延ばした所で、唯石炭を消費する許であったので、此の2帆前船には風位や天候の定まるを待って出発し、台湾の基隆(キールン)にて落合ふやうに命じ、蒸汽船なるミシシッピー号とポーハタン号とは帆前船サウサン

プトン号を曳いて出発し、航路を南から西へ取って進んだのである。而して6月29日にはマセドニアン号もサップライ号も下田を去ったので、亜米利加船は最早一艘も日本に影を留めなくなった。
是より前提督は本国へ手紙を送って、自分の使命を終ったから、艦隊の役目を次の士官に委ねて一足先に帰国したい旨を言ひ遣した。提督は下田を去って7月1日に琉球に寄港し、其の11日に琉球官憲との間に、糧食薪炭の補給及び歩行自由等大体に於て日本と締結したものと同じ条約を結んで、14日には琉球の役人を招待して訣別の饗応をなし、17日に那覇を出発し、提督は真直に香港に赴いた。
其処には本国海軍省から発した彼の手紙に対する返答が既に着いて居た。其の返答はミシシッピー号で帰国するか、それとも便船で帰るか、何れでも宜しいとの事であったので、提督は後の方を選んで、艦長アボットにマセドトアン号及びポーハタン号から成る一艦隊の司令権を委ね、他の軍艦にはそれぞれ帰国を命じ、支那在留の官民並びに艦隊の将士に見送られ、副官と共に英吉利郵便汽船ヒンドスタン号

に投じ、合衆国を去りて2年2個月めの1855年1月12日紐育(ニューヨーク)に着いた。同じ年の3月23日には彼の旗艦ミシシッピー号も亦ブルークラインの鎮守府に着いたので、其の翌日提督は再び旗艦に坐乗して、正式に提督旗を引卸し、此に初めて日本遠征の最後の幕は閉ざされたのである。

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