2022-12

函館市

石川啄木一族の墓

明治の歌壇を飾った石川啄木と函館の縁は深い。啄木が函館に住んだのは明治40年(1907年)5月から9月までの短い期間であったが、この間の生活は苜蓿社(文芸結社)同人らの温かい友情に支えられながら、離散していた家族を呼び寄せ、明るく楽しいものであった。「死ぬときは函館で……」と言うほど函館の人と風物をこよなく愛した啄木であったが、明治45年(1912年)4月病魔におかされ、27歳の生涯を東京で閉じた。大正2年(1913年)3月啄木の遺骨は節子未亡人の希望で函館に移されたが、彼女もまた同年5月、彼の後を追うかのようにこの世を去った。
函館市

宮崎郁雨と影二の歌碑

宮崎郁雨は明治18年(1885年)に新潟県で生まれた。その後一家は来函し、父親は味噌製造業を営んだ。明治39年(1906年)に文芸結社苜社ができると、その同人となった。翌40年(1907年)に啄木が来函してから、郁雨は物心両面にわたってあたたかい援助を続け、明治42年(1909年)、郁雨は啄木の妻節子の妹ふき子と結婚した。 郁雨は家業を継ぐかたわら、短歌づくりを続け、昭和37年(1962年)に亡くなった。この歌は没後刊行された「郁雨歌集」の中の「自問自答」に収録されているもので、歌碑は昭和43年(1968年)に函館図書裡会が建立した。 砂山影二(本名、中野寅雄)は、大正7年(1918年)に函館で創刊された文芸誌 「銀の壺」の同人として活躍した。石川啄木を深く崇拝し、その短歌に傾倒していたので、彼の作品には啄木の影響がみられる。人生に懐疑的であった影二は、大正10年(1921年)、青函連絡船から身を投じ、弱冠20歳の命を絶った。 この歌は「坊ちゃんの歌集」の前文にあるもので、歌碑は昭和43年(1968年)、海峡評論社と函館図書裡会が建立した。
七飯町

大沼国定公園

大沼は、駒ヶ岳の山頂部分が噴火により大崩落を起こして出来た堰止め湖。大沼・小沼・蓴菜沼の3湖の中で最も大きく、島数が多いため変化に富んでいます。周囲約20.9km、面積5.49km2、最も深いところで水深13.6mです。
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