松前天保凶荒録

松前天保凶荒録 資料集
出典:北海道大学北方資料データベース

「松前天保凶荒録」は、明治19(1886)年1月、函館県が県下の郡役所及び町村役場に命じて、天保の凶荒の惨状に係る記録、口碑を報告させたもの。以下、北海道大学北方資料データベースで公開されているもの(大正4年河野常吉写)をテキスト化した。

松前天保凶荒録p.01/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (1 / 49 ページ)

第二七号
松前天保凶荒録

松前天保凶荒録p.02/49
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松前天保凶荒録

松前天保凶荒録p.03/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (3 / 49 ページ)

此書明治十九年一月函館県ニ於テ天明并ニ天
保ニ於ケル凶歳ニ関スル惨状并ニ救済ノ状況ヲ
県下郡役所及町村役場ニ命シテ記録口碑
等ニ記キテ調査報告セシメタルモノナリ但シ天
明度ノ調査ハ憑拠ナキ記事多キヲ以テ抄録
セス天保度ノミヲ抄録ス原本ハ備荒貯蓄
一件ト表題シアリ北海道庁公文書 タ調七号冊号二四四 ニ
アリ
 大正四年八月二日■

   函館区長聞取概要
天保四年諸国大ニ飢饉ス殊ニ我北海道ニ米穀
ヲ供給スベキ秋田南部津軽等ノ地方五穀実ラ
ズ餓孚道途ニ横ハリ其最モ甚敷ニ至リテハ子
ハ親親ハ子ノ死屍ヲ食フ如キ惨状ヲ極メタル
コトアリト云フ是ヲ以テ当函館ノ如キハ可成在
米ヲ保存シ渇乏ヲ防クカ為メ函館奉行命シ
テ「ヲシメ」昆布ヲ混交セル粥ヲ作リ食ハシム庁
衙ニ出入スル吏員ハ勿論御用達等マデモ其弁
当ニハ皆粥ヲ用ヒザルハナク若シ「ヲシメ」ヲ混
ゼザル弁当ヲ喫スルモノアレバ奉行ノ譴責ヲ

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受クルコト甚ダ厳ナリ
此年ノ影響ニヤ許ノ如キモノ延テ同八年ヨリ
九年ニ及ビタリ其最モ在穀欠乏ノ時ハ四斗入
一俵玄米ニテ二両三分三朱 平常ナレハ大方相場ニシテ一貫二三百文位ノ価格ナリ 大麦
四斗入一俵一両三分三朱ニ及ベリ
加賀国橋立ノ商人西出孫左衛門 屋号西出 久保彦兵衛
屋号小餅屋 両家ハ旧来当地方トノ取引ヲ専業トシ以
テ其身代ヲ仕上ゲタルモノナルガ故ニ当地ノ
有様ヲ聞キ及ビ直チニ其手船ヲ九州ニ回漕シ
幾許ノ米穀ヲ買入レ当港ニ積下シタリ当時ノ
函館奉行小林三左衛門乃チ之ヲ買上ゲ市中毎
戸ヘ割当テ払下ク前項ノ価格ハ即チ此九州米
ナラント云フ

茲ニ最モ僥倖ヲ得タルハ鯡及ヒ蜊大根蕨ノ根
等ノ食料ヲ助ケタルコト是レナリ当時ハ現今ノ
如ク築出シ埋立等ノ事ナカリシヲ以テ当港内
 現今廣業商会所在ノ地船場町近傍一円 ニ鯡ノ群集スルコト夥ダシク豊漁ナル
コト連年加之若松町近海ハ遠浅ナル為メ蜊ノ生
ズルコト是亦夥多ニシテ十二三才ナル小児ニテ
モ半日ニ二斗樽ニ一ツ位ハ容易ニ収穫スルコト
ヲ得タリ殊ニ大根ハ頻年豊作ニシテ近村ハ勿
論市中ニテモ是ノミニテ性命ヲ維ケルモノア
リ蕨ノ根ハ山野到ル処土ヲ掘リテ之ヲ取リ団
子等ニ製シテ食用ニ充ツ亦大ニ飢餓ヲ支エタ

秋田津軽等ニテハ北海道ヘサエ行ケバ餓死ヲ

松前天保凶荒録p.05/49
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免ルルトテ船舶ノ下リ来ルモノアル毎ニ便船
ヲ乞フモノ多ク若シ船人ノ之ヲ謝絶スルアレ
帆影ヲ追フテ海ニ投シ為メニ溺死スルモノア
ルニ至ル因テ舟子モ止ヲ得ズ之ヲ乗船セシム
ルモ公然函館港ニ上陸セシムルヲ得ザルニ依
リ 蓋シ糧食欠乏ノ為メ一時飢民ノ渡航ヲ禁ジタルナラン 密カニ山背泊或ハ寒川等ヨリ
上陸セシメ而シテ船手ハ毫モ之ヲ知ラザルノ
状ヲ為シテ入港ス故ニ市民ハ飢民ノ何レヨリ
来ルヲ知ラズ各喫驚スルノミナリシガ追々食
ヲ戸前ニ乞フモノ増殖シ遂ニ飢ニ堪エズシテ
其門内ニ倒ルルニ至リケレバ市民ノ志アルモ
ノハ一日幾舛ト限リテ粥ヲ製シ之ヲ与エタリ
其人々ハ高田嘉兵衛 高田屋 藤野喜兵衛(又十)小林重吉

■山田寿平■蛯子武兵衛■佐藤半兵衛■等ニ
シテ小林一家ニテハ一日米五舛ニ「ヲシメ」一舛
ヲ混シ粥トナシ毎朝一椀宛テ一人毎ニ与ヘタ
リ其人員ハ百六十三名ニシテ凡一ヶ年半ノ間
之ヲ救助セリ
其右追々少々宛米穀ノ輸入モアルニ随ヒ資力
アルモノハ幾俵ツツカノ米穀ヲ町会所ニ納シ
町会所ニテハ港内ノ貧民窮戸ヲ調査シテ之ヲ
割当セリ其他市民ノ内ニテモ年忌佛事等アル
毎ニハ僧ヲ迎ヘ佛ニ供スルヲ廃シ貧民一人毎
ニ米一舛銭二百位宛給与シ来レリ
現今区内共有物ノ一ナル「ヲシメ」昆布モ亦此時
代ノ蓄積ニ係ルモノナリ 其起原等ハ過般調査セル「ヲシメ」昆布ノ製
法用法等■シアレハ茲ニ之ヲ略ス

松前天保凶荒録p.06/49
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是ト同時ニ備荒貯蓄ノ議起ル即チ運上金ノ弐
歩金ナルモノヲ徴集シ金員ハ町会所ノ管理
スル所ニシテ貯穀ノ方法ハ先ツ今年新穀ヲ購
入シ翌年漁期ニ至リ場所受負人ソノ受負場所
エ積下スベキ新穀ヲ購入スルノ際前年ノ貯穀
ヲ以テ漁場ニ回漕シ受負人ノ購入セル新穀ヲ
バ蔵庫ニ貯ヘ如此輪転交換シ其舛減ハ一舛以
上ナレバ下渡シ一舛以下ハ受負人ヨリ冥加ト
シテ請取ラザルノ定メナリキ
此時代マデハ諸般ノ家具器物玩具等ヲ所持ス
ルモノ三港 函館福山江差 ニテ僅々二三家ニ過ギザリシニ
奥羽地方飢餓ヲ免ルルガ為メニ重代ノ器具等
ヲ売出セルモノト見ヘ是等ノ物品ヲ輸入スル

コト頗ル多ク其価モ亦非常ノ低廉ナリシ故ニ少
シク資産アルモノハ多少ニ限ラズ之ヲ購求セ
リ故ニ現今ノ豪商所有スル古器具類ハ多分其
時ニ得タルモノナリト云フ
元称名寺地内 現今富岡町弥生学校下ニ当ル辺ヲ云フ ニ南部津軽人等ノ餓死
シタル死屍ヲ一所ニ埋葬シタルコトアリト云フ
モノアリ即チ同寺ハ勿論他ノ寺院等ニ就キ調
査スルモ当時ノ書類散逸ノ為メ何分調査シ難
ク偶々過去帳ニ南部津軽人等一両名ノ戒名ア
リト雖トモ是等ハ餓死ノ為メ斃死シタルモノト
云フコトヲ得ザルナリ
以上ノ状況ニ因リテ考フルニ本港ノ如キハ航
海貿易ノ道早ク開ケ運輸ノ便ヲ得タルコト多ク

松前天保凶荒録p.07/49
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且当時金融活発ナルガ為メ南部津軽秋田地方
ノ如キ惨状ハ免レ得タルモノナラン歟

   亀田上磯両郡役所調査
   亀田郡椴法華村調査
天保四 癸巳 年ハ諸国同様当村内壱人トシテ困難
セザルナシ或ハ「スダミ」 栃ノ実也 或ハ魚類ヲ食シタリ
ト云フ然レドモ幸ニ官ノ救助米ヲ得或ハ鱈昆布
等ノ漁業多ク為メニ露命ヲ繋キ終ニ相凌タル
モ両三人程餓死セシ由尤此時ハ米壱俵金弐両
弐分鱈一束 但三十本ナリ 銭七百文ニシテ金銭サヘ所持
スレバ差支ナカリシト云フ

同七 丙申 年ハ先年ヨリノ凶荒引続キニテ村内ノ
困難前ニ倍シ飢餓セザルモノナシ然レドモ前同
様鱈昆布等ノ収穫アリシヲ以テ米壱俵ト鱈廿
三束ト交換シテ相凌キ此時ニ当テハ壱人モ餓
死セシモノナシト雖トモ翌酉年ニ至リ霍乱病流
行シテ多ク死セシモノアリシト云フ

   仝郡尻岸内村
天保四 巳 年同七 申 年飢饉ノ如キニ至テハ老人
ノ心頭ニ不忘処ナリ就中四年ノ如キハ凶荒最
モ甚タシト云ヘリ当地方村民ハ悉ク漁樵ヲ以
テ業トシ其利ヲ以テ函館ヨリ米噌ヲ購求シ生
計ヲ営ミ居タリシ者ナレバ斯ク凶荒ニ遭遇シ

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米穀ノ販路全ク絶シ衆庶一般困難セリト然レ
トモ戸口漁業者タルヲ以テ魚肉ヲ食トシ或ハ野
ニ出テ蕨根ヲ掘採シ製シテ食ニ充テ少モ餓死
ノ患ナカリシト故ニ内地ノ如キ餓死道路ニ横
ハリ父子相食ム如キノ惨状ヲ見サリシト云フ
此際ニ当テ南部地方ヨリ続々渡航セシ者アリ
漁業ヲ営ミ今尚残留セル者数多アリ是等ハ皆
内地ノ飢饉ニ因ミ渡航セシモノナリ依之推考
スルモ内地凶荒ノ被害大ナルヲ知ルヘシ以上
記スル処是亦旧記ノ存ズルナク老者ニ就キ傳
聞ノ概略ナリ

   仝郡戸井小安両村
天保四 巳 年同七 申 年凶荒ノ如キハ老人ノ覚知
スルヲ以テ其一端ヲ知ルヲ得天保四年ニハ凶
荒甚シト雖トモ米穀ノ販路全ク絶シコトナシト云
フ同七年ノ如キハ一層甚タシク米穀ノ販路絶
ヘタル由然レトモ当地方ノ村民ハ魚業ヲ以テ業
トシ村中過半ハ永年函館ヘ仕込方ヲ 約シ置キ
 方言金■ト云フ 夫ヘ取獲シタル海産物ヲ差送リ米噌其他
ノ需要品ノ仕込ヲ受ケ生計ヲ営ミ居リシ故飢
饉ノ節ハ村民互ニ持合ノ米噌ニテ給ベ合セ且
又官ヨリモ米ヲ拝借シ夫ヘ原野ニ生スル蕨ノ
根ヲ掘採リ製粉シ或ハ昆布カテ等ヲ交セ常食
トナシ且多ク魚肉ヲ食シ為メニ餓死シタルモ
ノナシ尤七年ニハ玄米四斗入壱俵弐両弐分ニ

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売買セシト云フ

   同郡石崎村
天明飢饉
申傳ニ拠レハ天明ノ飢饉ニハ米粟麦等ノ糧渇
キ旧藩ノ扶助等モ既ニ絶ヘ殆ント死ニ無ント
スル時ニ際シ当村ノ人民山野ニ出テ雪中蕨ノ
根ヲ堀採リ氷ヲ割テ蕨ノ澱粉ヲ製シ各自食料
トシ春季ニ至リ山野ニ生スル蓬及野草ノ内食
用トナルベキ青葉ヲ採リ又海ニ入テハ若生ノ
昆布ヲ採リ川ニ浸シ晒シテ乾燥シ粉トナシ 方言之ヲ
「ヲシメ」ト云フ 是等ヲ蕨ノ粉ニ混和シテ熱湯ニテ練リ各
自食用トシ海面沖合ニハ海草若布昆布及魚ヲ

漁獲シテ食シ餘分ハ製出シテ販売シ糧ヲ求メ
終ニ露命ヲ繋キテ壱名ダモ餓死セシモノナカ
リシト
天保飢饉
天保年間モ同様ニテ人民一同シテ官米ヲ拝借
シ又祖父孫兵衛等窮民ヲ救助シ此際ハ南部津
軽地方ヨリ飢饉ニ迫リタル者数多渡来シ却テ
当地人民ノ救助ヲ得テ共ニ露命ヲ全フシタル
モノアリト是レ偏ニ当地方山野ニ蕨ノ多ク自
生スルニヨリ之ヲ採テ食ニ充テ飢饉ヲ免ルル
ヲ得タリ蕨ノ人民ノ益タル平年ニアリテハ春
季発生ノ際之ヲ採テ食シ凶歳ニアリテハ其根
ヲ堀リ飢ヲ医ス実ニ当地方救荒ノ最大一ナル
モノナリ希クハ之カ保護法ヲ設ケラレンコトヲ

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   同郡銭亀沢志苔亀尾三村
天保四年同七年共ニ被害甚タシク人民孰レモ
菜色ヲ帯フルノ景況ニテ天明年間同様野草海
藻等ニヨリ漸ク助命シ其難渋一方ナラザル折
柄南部津軽地方ノ被害者等一時救助ヲ乞フモ
ノ陸続渡航シ為メニ彼我益艱難ヲ増シシカモ
幸ヒ官ノ拝借米ヲ仰キ傍ラ有志者ノ救助等ニ
頼リ一人モ餓死セシモノナカリシ

   同郡上湯川根崎下湯川三村
天保年間凶荒ノ景況ハ奥羽地方大ニ害ヲ被リ
当地方ハ格別ノ害ナシト雖トモ貧窮者ハ大ニ困
難ヲ極メタレトモ餓死ノ者ハナカリシト云フ時
ノ食料ニハ蕨ノ根葛ノ根昆布或ハ雑草ノ内食
用ニ供シテ障害ナキモノ等ヲ食シ漸ク生命ヲ
保チシト云フ米ノ売買ナキニアラザレトモ水産
物或ハ野菜等ノ売捌ケザルヨリ米ヲ買フコト能
ハス且米モ一舛ニ付最低価ハ銭三百文最高価
ハ金一両程ナリシト云フ海産物ノ内折昆布売
買アルモ一把 八百五十匁 ニ付二十五文ナリシト云フ
此外旧記ノ存スルナク唯老人ニ就キ聞取シ廉
々如斯

松前天保凶荒録p.11/49
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   同郡亀田神山鍛冶三村
天保年間ノ凶荒聞ク処ニ拠レハ同三年辰ノ春
雪多ク解雪ノ遅キカ為メ牛馬飼料ノ秣不足シ
野菜穀物凶作同四年巳ノ二月沓潮ヨリ米穀ノ
価追々騰貴シ九月ニ至リ白米一俵 四斗入 金一両十
月ヨリ米及酒ノ売買止ミ人民大ニ苦ミ藩ヨリ
一人ニ付米三舛索麺一把価四百文宛ニテ拂下
アリ又鍛冶村ニテ十日間家一軒ニ付米三舛五
合但一舛ニ付百三十五文ニテ拂下アリ五月旱
ノ為メ野菜穀物種ナシ小麦一俵一両一分大豆
一舛百五拾文蕨ノ花 澱粉 壱舛三百五拾文大坂酒
壱樽四両越後酒同二両糯米壱俵三両迄ニ騰貴

シ人民ノ困苦限リナシ依之藩庁ヨリ直下ケノ
達アリ
同五年春ヨリ夏ニ至リ東風 ヤマセ 雨多ク土用過キ
旱シ亀田川水不足七八両月大風雨此年始メテ
積穀ノ達シアリ
同六年春旱寒気甚シク強風大雪ニテ三月下旬
解雪ノ色ナク秣不足ニシテ馬大ニ斃ル六月初
メ西風吹キ続キ穀物野菜モノ種ナシ九月ヨリ
米売買止ミ斗リ米一軒ニ付五舛ツツ
同七 申 年春ヨリ夏ニ至テ寒ク近年稀ナルコトニ
テ野菜種子高価人参種子一杯 二合五勺 六百文茄子種
子一ツ四百五十文大根種子一舛金二分七月中
東風吹キ寒気寒中ノ如シ八月中旬茄子玉子ノ

松前天保凶荒録p.12/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (12 / 49 ページ)

如キモノヲ見ル南部津軽船止メニテ米売買ナ
シ故ニ老若男女近傍山々ニ出テ蕨ヲ堀リ採リ
 今神山村地内ツヅミ向辺ナリ 食物トス九月足軽在々エ出蕨掘被命
十一月廿日大雪ノ為メ蕨ヲ掘ル不能人民飢餓
此時米一俵価二両越後酒一樽一両一分ナリ官
ヨリ御救トシテ一人ニ付米三舛宛下与
同八 酉 年兎角雪多ク此年ノ食物ハ大根蕎麦稗
等ヲ交セ食シ家業蕨掘リノ外ナシ米ハ一舛ニ
付三百三十文小豆一舛二百文醤油一杯百文酢
同百四十文位ナリシ此年モ官ヨリ救助アリ人
民大ニ助カリシト
以上述ブルカ如ク天保三年ヨリ同八年迄六ヶ
年間気候不順作物不熟打続キタル故翌九年大

飢饉ニテ近国ニ於テ餓死ノモノアリシ由然レ
トモ亀田鍛冶神山村等ニ於テハ雑穀モ少クアリ
且近山ニ蕨多クアリシ故幸ニ餓死ヲ免レシト
云フ

   同郡桔梗赤川大中山石川四村
天保四年ハ夏降雨打続キ東風 ヤマセ 吹キ炎暑ノ候
ト雖モ単物ニテハ凌キ兼ヌル程ノ気候ニテ穀
類ノ内麦ハ並作ニテ大小豆粟稗ノ類ハ結実セ
ス 当時ハ米作及馬鈴薯ノ作ナシ 秋比ニ至リ食物欠乏シ糊口一方ナ
ラサル困難ニ及ヒ老若男女ノ別ナク日毎ニ山
野ニ出テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ食用ニ充ツ其他雑

松前天保凶荒録p.13/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (13 / 49 ページ)

草等苦味ヲ帯ヒサルモノ及有毒ノモノヲ除ク
ノ外ハ食用ニ供セサルナキニ至レリ然レトモ幸
ニ餓死ヲ免レ終ニ生存スルヲ得タリト
同五年ハ穀物等並作ニテ飢餲ニ窘ムノ患ナカ
リシ由
同六年七年ハ東風降雨打続キ夏中暑気ヲ覚ヘ
ス麦作ヲ除クノ外ハ穀類豊熟セス人々蕨ノ根
等ニテ漸ク生命ヲ保チ前四年ノ凶荒ニ比シ一
層惨状ヲ呈シタリ然トモ天然草ノ饒多ナルヲ以
テ幸ニ餓死スルモノナカリシト
同八年ハ作物半作位ニテ人々食ニ飽クノ歓楽
ナシト雖トモ猶蘇生ノ思ヲナシ家業ニ従事スル
ヲ得タリ

函館ニ於テ他道ノ輸入穀ナキヲ以テ販売セス
六年七年ノ間ハ殆ント米飯ノ味ヲ忘レタルモ
ノノ如シト云フ

   同郡七飯鶴野藤城峠下軍川五村
天保年間ノ飢饉モ書類無之然レトモ其凶荒ニ遭
遇セシモノニ就テ之ヲ質スニ当時水田未タ開
ケス多クハ畑ニシテ麦大豆稗粟ノ類ノミ耕作
セリ然ルニ其飢饉ノ年ニ当テ成熟セシモノハ
稗ノミニシテ其他ノ作物ハ穂ヲ抽クモ稔ラス
悉ク秕ノミ蔬菜ノ如キモ亦不作ナリ如斯モノ
数年故ニ人民ハ皆夏秋ノ候ハ蕨欵冬等ヲ食ニ

松前天保凶荒録p.14/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (14 / 49 ページ)

充テ将ニ冬季ニ至ラントスルニ先チ蕨ノ根或
ハ葛ノ根塊ヲ堀採リ土中ニ埋蔵シ漸次澱粉ニ
製シ或ハ其糟粕ヲ魚肉ト混煮シテ冬春二季ノ
常食トナシ終ニ生命ヲ保チ得タレトモ旅人ノ路
傍ニ餓死スルモノ少ナカラザリシト云夏作物
ノ稔ラザリシハ気候不順ニシテ夏季ト雖トモ尚
寒ク秋季ニ至リ将ニ熟セントスルニ当リ霜己
ニ置キ為メニ枯死シテ稔ラス此際人民ノ終ニ
穀物ヲ得ルモノハ唯官ヨリ一戸 凡五人平均位ノ割合 ニ付一
ヶ月白米三舛ヲ限リ相当代価ニテ拂下ラレタ
ルヲ以テナリト云フ

   同郡大野一渡本郷文月千代田
   一本木六村
天保四及七両年ノ凶荒ハ第一気候不順ニシテ
日々風雨寒気甚タシク就中東風北風最モ害ヲ
ナセリ作物ハ当時多ク蕎麦大小豆粟麦其他馬
鈴薯ノミニテ水田モ多少アリシカトモ只稗ヲ植
付シ迄ニテ皆不熟ナリシ右ノ景況故当地人民
ハ勿論近接ノ漁夫ニ至迄当村エ来リ字向野観
音山ニ於テ蕨ノ根ヲ堀リ採リ澱粉ヲ製シ又ハ
「シダメ」杯ヲ拾ヒ各冬期ニ際シ渓澗ノ枯蕗等ヲ
取リ之ヲ食シ終ニ生命ヲ保チシ其際ニ関東奥
羽地方ヨリ当道ヘ渡航シ一時口糊ヲ凌キタル
モノ幾千ナルヤ知ルヘカラス実ニ当時の景況

松前天保凶荒録p.15/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (15 / 49 ページ)

名状スベカラザルノ惨状ナリシ然レトモ幸ニ道
路ニ餓死スルモノハ知ラザリシ旨老夫ヨリ傳
聞セリ但当時ノ戸口ハ概略左ノ如シ
  大野村戸数凡六七十戸人口三百二三十人
  本郷村戸数凡二三戸 人口十二三人
  一渡村戸数凡二十三戸人口百十四五人
  千代田村戸数七戸  人口三十四五人
  一本木村戸数六七戸 人口三十四五人
  文月村戸数 六七戸 人口三十八九人

   上磯郡上磯谷好清川冨川中野五村
天保四年同七年ノ凶荒ノ如キモ亦記事ナシ之
ヲ古老ニ質スルニ其口話曰ク天保度ノ飢饉ハ
当道ト雖トモ内地ト異ナラサルモノノ如シ然レ
トモ当道ハ幸ニ海運ノ便ナルト海産物及山野自
生ノ菓草々根ノ食飼ニ充ツヘキ物ニ富ムヲ以
テ仮令米価ノ貴キモ内地邉陬ノ困難トハ大ニ
異ナル所アリト思量シタリト然レトモ当村中々
等以下ノ者ハ皆他ノ業務ヲ■チ挙家日々山野
海浜ニ出テ草根菜茎若クハ海藻ヲ採収シ是レ
ニ十分ノ一二米稗ヲ混合シテ食シ飢ヲ凌クニ
汲々セリト云フ斯ル凶荒ナルモ内地ヨリハ餘
裕ナル所アルカ別ケテ南部津軽地方ヨリ其飢
餓ヲ救治センカ為メ老幼ヲ携ヘ当地エ来往ス
ルモノ夥多ナリシト云フ

松前天保凶荒録p.16/49
出典:北海道大学北方資料データベース 松前天保凶荒録 / 函館県 編 (16 / 49 ページ)

   同郡茂辺地村

   同郡茂辺地村
天保年間ノ飢饉タル全邦一般ニシテ就中関東
奥羽ノ地方被害尤モ甚タシク其影響当地方ニ
波及シ人民大ニ困難セシトテ今古老ノ説示ス
ル処ナリ其談話ニ就キ当時ノ景状ヲ陳レバ則
元来村民ノ主眼トスル業利ハ山海ノ別ナク悉
ク天産ニ頼ラサルハナシ彼ノ犂耕ノ業ノ如キ
ハ概ネ婦女子ノ閑時ニ委ネ其穫ル処ノモノハ
終ニ蔬菜ノ類ニ過キズ故ニ日常欠クヘカラザ
ル米穀ノ如キハ皆内地諸国ノ輸入ヲ仰キ得ル
処ノ金銭ヲ以テ之ヲ購ヒ 重ニ函館ニ於テ 以テ生活セルモ

ノナリ然ルニ此年ノ凶荒ハ日頃当道人民ノ最
モ其輸入ヲ頼ム処ノ加越奥羽ニ甚シク為メニ
一時ハ殆ント一糧穀ノ輸入ヲ見サリシカ幸ニ
地位海運ニ便ナルカ故爰ニ利欲ノ商起リ北国
凶荒ナリト知レバ遠ク九州ノ米ヲ輸シ巨利ヲ
得ルモノ尠カラス故ニ函館ノ市街ニハ左ノミ
其乏キヲ知ラサル程ナリシト当村ノ如キハ之
ヲ距ルコト終カニ数里ノ内ニアレバ大ニ幸福
ナルカ如シト雖トモ如何セン其価極メテ貴ク始メ
天保三年ニアリテハ白米壱俵ノ価二貫五百文
内外ナリシニ僅々一年間ヲ経テ拾弐貫文以上
ニ騰貴シ而モ尚コレニ止マラサルカ如シ故ニ
之ヲ購フノ財ナク僅カニ数里内ノ累穀モ徒ニ

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