傷心惨目の碑

傷心惨目の碑

  • 2019年4月13日訪問。

説明板

傷心惨目の碑

傷心惨目の碑
明治2(1869)年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われた。当時の高龍寺は、もっと坂の下にあり、旧幕府脱走軍の箱館病院分院にあてられたが、同日、新政府軍の先鋒隊が乱入し、傷病兵らを殺傷して寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲となったという。
明治12(1879)年高龍寺は移転、翌13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、惨殺された藩士を供養した。
碑面「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったもので、文字は中国南宋の忠臣岳飛の真跡を写したものである。
函館市

MEMORIAL OF “SHOSHIN ZAMMOKU”
On May 11, 1869(Meiji 2) the fiercest battle of Hakodate War was fought in downtown Hakodate. At that time Koryuji Temple was located at the foot of the slope where it stands now and it was used as a branch of Hakodate Hospital for deserted soldiers of the old Shogunate army.
On this day spearhead force of the new government’s army burst into the temple and killed the sick and wounded in bed, then set fire to the temple. The Aizu clan forces which fought against the new government paid dearly in human cost in this battle.
In 1879 (Meiji 12) Koryji Temple was moved to its present location and the following year the supporters of the Aizu clan erected this monument in memory of those who were murdered in this attack.
The Chinese characters on the monument read, “Shoshin Zammoku” or “mourning an ancient battlefield.” These are the words of Rika, a Chinese literary man of the Tang period (618-906). The characters were traced over the genuine writing of Gakuhi, a faithful retainer of Southern Sung(1127-1278), China.
CITY OF HAKODATE

場所


高龍寺蔵 蠣崎波響筆 釈迦涅槃図

釈迦涅槃図

高龍寺宝の蠣崎波響筆釈迦涅槃図。毎年4/1〜4/15まで一般公開されます。かなり見応えがあります。

2019年4月13日訪問。

以下、キャプションより。

釈迦涅槃図(北海道指定有形文化財)蠣崎波響筆
涅槃図では珍しく双幅の形式をとっており、一切の煩悩から解脱し入滅する釈迦とそれを見取り悲しむ僧侶や貴人、俗人に至るまでの人々、さらに動物から植物にいたる森羅万象がその安心立命を思うさまを描き、右側には多分の余裕を持たせながら、構図の拡がりを効果的に利用している。動物は多種が描かれ、トラやサル、ウサギなどは応挙風に描かれ、ミミズ・カタツムリ・トンボ・カマキリ・ホタルなど、小さな生き物への愛情さえ感じさせる描写もある。多種多様の鳥の毛や羽の描き方などは博物図譜を思わせ、当時の博物学(自然誌)の隆盛が波響の釈迦涅槃図に大きく影響していることがわかる。通常、東西南北2本ずつ合わせて8本描かれる沙羅双樹の木が11本となっていることは異例である。
波響はこの年48歳、松前の復領や肺患に悩みながら生涯に残すべく、彼の持つ総力を結集したものである。
この絵の款記には次のように記されている。
時文化辛未秋九月為松前函館奥山高龍寺十一世禅海上人
蠣崎源廣年斉沐
拝手写於波響樓
※當山では、毎年涅槃会法要にあわせ、4月1日〜15日まで釈迦涅槃図を一般公開しています。

蠣崎波響(1764〜1826)<本名—廣年>
松前藩第7代藩主資廣の5男として生まれ、翌年、家老蠣崎家の養子となる。幼少期は江戸で過ごし南蘋派の建部綾足に学び、のちに宋紫石について画風を学ぶ。18歳になった波響は、松前に戻り家老見習いとして藩政に携わる一方、大原呑響や円山応挙に師事し画風を南蘋派から円山派に大きく変化させた。
1807(文化4)年、幕府は松前藩を格下げし、奥州梁川(現在の福島県)へと移封することになった。この懲罰的移封は藩主で波響の兄にあたる道廣(第8代)の豪慢と当時懸案化してきた北方問題にあったと云われている。
44歳となり家老として藩政の中枢を担っていた波響は、梁川移封後も松前への復領に心血を注いでいた。こうした状況の中、文化8年、交友のあった高龍寺11世華重禅海住職の頼みであった釈迦涅槃図を制作する為函館に渡る。この時の波響は、家老の職にあったとは思えないほど精力的に絵を描き続け、次々と名品を生み出し画人として最も円熟した時期であった。1821(文政4)年、復領し松前に戻った波響は家老の職を退き1826(文政9)年、63年の人生に幕を閉じた。
波響のその他の作品は、クナシリ・メナシの蜂起で松前藩に協力したアイヌの首長を描いた「夷酋列像」が代表作として知られている。
<當山では釈迦涅槃図の他に四時競色図・羅漢図・鶴亀図を所蔵>




谷好寺

谷好寺

谷好寺。住所は谷好(たによし)ですが、「こっこうじ」と読みます。
平成31年3月24日訪問。

  • 谷好寺
  • 北斗市谷好3丁目12番5号

北海道新聞「学生との古銭調査紹介 3月退職の函館高専・中村教授講演 」

中国からアイヌ民族を介して北海道に伝わった「蝦夷錦(えぞにしき)」の研究などに尽力した函館高専の中村和之教授(62)=東洋史=が本年度末での定年退職を前に21日、函館市戸倉町の同校でこれまでの研究について振り返る記念講演会を開いた。

中村先生、御定年だったとは…。


函館新聞「市立函館博物館「デジタルアーカイブ」リニューアル」

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データをホームページ上で公開する「デジタルアーカイブ」をリニューアルした。考古、美術工芸など7分類100件の資料を公開。画像の拡大閲覧や検索などの機能を強化した。公開資料数を順次増やし、資料の活用促進につなげたい考えだ。

未来大学と連携し始めてから、函館のデジタルアーカイブはかなり進展した印象です。さらなるデジタルコンテンツの公開に期待してます。

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データを・・・

北海道新聞「パリに出品「赤彩注口土器」 9日から 八雲で「凱旋」展示」

町野田生で出土した縄文土器で、フランス・パリで昨年開かれた「縄文―日本における美の誕生」展に海外初出品された「赤彩注口土器(せきさいちゅうこうどき)」が、9日から町木彫り熊資料館で「凱旋(がいせん)」展示される。

常設展示されてないそうなので、実物を目にすることができる貴重な機会です。


日経新聞「北海道の松前城、木造復元へ 事業費30億円」

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守は老朽化で耐震性が危ぶまれ、改修を検討していた。整備期間は最短で16年、事業費は約30億円と見込んでいる。

16年後。新幹線も札幌まで伸びているだろうし、自分も60目前だし。復元された天守閣は老後の楽しみか?

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守

スポンサーリンク