北海道新聞「学生との古銭調査紹介 3月退職の函館高専・中村教授講演 」

中国からアイヌ民族を介して北海道に伝わった「蝦夷錦(えぞにしき)」の研究などに尽力した函館高専の中村和之教授(62)=東洋史=が本年度末での定年退職を前に21日、函館市戸倉町の同校でこれまでの研究について振り返る記念講演会を開いた。

中村先生、御定年だったとは…。


函館新聞「市立函館博物館「デジタルアーカイブ」リニューアル」

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データをホームページ上で公開する「デジタルアーカイブ」をリニューアルした。考古、美術工芸など7分類100件の資料を公開。画像の拡大閲覧や検索などの機能を強化した。公開資料数を順次増やし、資料の活用促進につなげたい考えだ。

未来大学と連携し始めてから、函館のデジタルアーカイブはかなり進展した印象です。さらなるデジタルコンテンツの公開に期待してます。

市立函館博物館は、収蔵資料の画像データを・・・

北海道新聞「パリに出品「赤彩注口土器」 9日から 八雲で「凱旋」展示」

町野田生で出土した縄文土器で、フランス・パリで昨年開かれた「縄文―日本における美の誕生」展に海外初出品された「赤彩注口土器(せきさいちゅうこうどき)」が、9日から町木彫り熊資料館で「凱旋(がいせん)」展示される。

常設展示されてないそうなので、実物を目にすることができる貴重な機会です。


日経新聞「北海道の松前城、木造復元へ 事業費30億円」

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守は老朽化で耐震性が危ぶまれ、改修を検討していた。整備期間は最短で16年、事業費は約30億円と見込んでいる。

16年後。新幹線も札幌まで伸びているだろうし、自分も60目前だし。復元された天守閣は老後の楽しみか?

北海道南西部・松前町は国指定史跡の松前城について、天守を江戸末期の建設当時と同様に木造で復元する方針を決めた。2018年12月の町議会で石山英雄町長が表明した。戦後に鉄筋コンクリートで再建された天守

八郎沼公園

八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園
八郎沼公園

平成30年10月28日訪問。

説明板

八郎沼公園の由来
八郎沼のおこりは、明治13年の頃山田致人(現愛媛県生れ)が、隣接向野の観音山附近で乳牛5頭を飼育したことに始まるといわれ、致人は牛に水を飲ませるためにこの地に池を掘り水を貯わえたものであったが、その後中村長八郎が、水田のかんがいの用水源確保と養鯉場として修築したものが今日の沼の原形となり地元村民は名付けて「八郎沼」と称した。又、公園は昭和50年から大野町が構想を樹て綜合公園をめざして各種施設を整備し、今では町の内外から親しまれ憩の場として利用度が高まっている。
大野町教育委員会
大野町観光協会
平成18年2月1日より北斗市

八郎沼公園

八郎沼公園
八郎沼の起こりは、明治13年山田致人「弘化3年伊予国(現愛媛県)生まれ」が向野の観音山で酪農を始めたことにある。乳牛頭数5頭、うち4頭は雌であったという。致人が牛に水を飲ませるために池を掘って水を貯えたもので、それが水田の用水ともなった。後年、中村長八郎氏が修築し、養鯉場や水田かんがい用のために造ったのがこの沼であり、長八郎氏の名前にちなんで「八郎沼」と名付けられたといわれている。昭和50年頃から町が公園用地として綜合公園をめざして整備に着手し、現在では「八郎沼公園」として、近郊の市町村や多くの町民に広く親しまれ、憩いの場に利用されている。
平成2年6月
大野町教育委員会
平成18年2月1日より北斗市教育委員会

場所


史跡 志苔館跡

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

志苔館

  • 2018年10月20日撮影。

説明板

志苔館

史跡 志苔館跡
昭和9年8月9日史跡指定
昭和52年4月27日史跡追加指定
志苔館跡は、函館市の中心部から約9キロメートル離れた標高25メートル程の海岸段丘南端部に位置している。
西側には志海苔川が流れ、南側は志海苔の市街地および津軽海峡に面し、函館市街や対岸の下北半島を一望することができる。
館跡は、ほぼ長方形をなし、四方は高さ2〜4メートル、幅10〜15メートルの土塁で囲まれ、その外側には、壕が巡らされている。
郭内は、東西70〜80メートル、南北50〜65メートルで、約4100平方メートルの広さがある。
また、館跡の正面にあたる西側には、二重に壕が掘られ、さらに外側に小土塁が巡らされている。
松前藩の史書『新羅之記録』によると、室町時代頃、道南地方には12の和人の館があり、志苔館もその一つで、小林太郎左衛門良景が居住していたことが記されている。
この記述によれば、康正2年(1456)志苔館付近でアイヌの蜂起があり、この戦いにより翌長禄元年5月14日志苔館が攻め落とされたといわれている。
戦いの後、再び小林氏が館に居住していたが、永正9年(1512)4月16日にアイヌの蜂起があり、志苔館は陥落し、館主の小林彌太郎良定が討死したといわれている。その後は、小林氏が松前藩に従属したために、志苔館は廃館となった。
函館市
文部科学省

志苔館

志苔館

場所


外国人墓地(プロテスタント墓地)

外国人墓地(プロテスタント墓地)

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

外国人墓地(プロテスタント墓地)

外国人墓地(プロテスタント墓地)
誰というとなくこの墓地を外国人墓地と呼んでいますが、必ずしも外国人ばかりでなくキリスト教徒である日本人の墓も混じっています。
しかし、当時函館で他界した外国人は、ほとんどこの墓地に埋葬されていることから、外国人墓地の名ができたのでしょう。
古くは、安政元年(1854)4月ペリーが艦隊を率いて来航したとき死亡した水兵ウオルフ(50才)、レミック(19才)の墓をはじめ、ドイツ代理領事ハーバー、デンマーク領事デュース、函館で倉庫業を営んでいたイギリス人スコットの墓など40基あります。
函館市

CEMETERY FOR FOREIGNERS
Almost all foreigners who died in Hakodate were buried in this CEMETERY.
Although some Christian Japanese Citizens were also entombed here.
When Admiral Matthew C. Perry, Commander of the American, entered Hakodate in April.
1854; two crewmen, Wolfe(50 years) and Remick(19 years) were buried here. Also included in the 40 graves are the Denmark Consul Duus, the German Vice-Consul Haber, and an English warehouse manager Scott.
City of Hakodate

場所


歴史手帳—2019年版(吉川弘文館)

来年も手帳は吉川、歴史手帳。

2018年版は、ビニールのポケットに手帳が入っていましたが、2019年版はそれがなくなり一体的となっています。進化しました。

歴史百科に大きな変更点はなさそうです。

歴史手帳2019

歴史手帳2019

左側がポケットに入っていた2018年版。右が手帳単体となった2019年版。


万平塚

場所は地蔵寺入り口。万平なる人物についての詳細は不明。

万平塚

万平塚

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

万平塚

万平塚
石川啄木の歌に、「むやむやと 口の中にてたふとげの事を呟く 乞食もありき」というのがあるが、この乞食こそ明治から大正にかけての函館の名物男で名を万平といった。
ユーモアがあり、人から恵んでもらわない気骨のある乞食で、毎朝ゴミ箱を探し歩き、その家の人物評を日記風に書き残した。
一例を上げると「11月1日(明治39年)今朝好天気なれば先以て山田邦彦君(函館区長)の芥箱を探しにゆく。流石に山田君の夫人は、文明の空気を吸われつつあり、豚の脂身一塊、大根の皮と共に捨てられてるは、西洋料理の稽古最中と覚ゆ…」などとある。
この塚は、大坂から所用で来た鉄工場主「藤岡惣兵衛」が、万平にタバコの火を借りようとした際「帽子も取らずに」となじられたが、その人柄に感じ入り、大正4(1915)年万平の死後、供養塔として函館の知人の協力を得て建てたものである。
函館市

MANPEI’S GRAVE
Ishikawa Takuboku, a famous poet, once wrote a poem about a beggar walking around, muttering something precious and virtuous to himself. The beggar named Manpei was a popular figure who lived in Hakodate during the Meiji and early Taisho years.
He was a man of great spirit,and a good sense of humor, and he was never known to ask others for alms. Every morning he searched through garbage cans for food and wrote a simple description of each household he visited like a diary.
For instance, “November 1, 1906. Fine. First I went to rummage through the garbage can of Yamada Kunihiko (Mayor of Hakodate). Mr. Yamada’s wife, living a most civilized life, is as can be expected. Finding a piece of pork fat with some raddish peelings in the garbage, I suppose she is now learning Western cooking…”
When Fujioka Sobei, who was an ironmaster in Osaka, came to Hakodate on business, he asked Manpei to light his cigarette. He was rebuked for his impoliteness to have asked “Without taking off his hat” by Manpei.
Fujioka was so deeply impressed by Manpei’s character that after Manpei died in 1915 Fujioka built a grave stone for the repose of Manpei’s soul with the help of his friends in Hakodate.
CITY OF HAKODATE

場所


有無両縁塔

地蔵寺の入り口に建てられている有無両縁塔は、元治元(1864年)に、遊郭の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するために合同で建立したものです。

有無両縁塔

有無両縁塔

有無両縁塔

有無両縁塔

  • 2018年10月8日撮影。

説明板

有無両縁塔

有無両縁塔
この「有無両縁塔」は、元治元(1864年)に、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔である。
かつて山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があって賑わっていたが、箱館奉行が安政5(1868)年に、その一画を山ノ上遊郭として公認してからは、整備も進んでいった。さらに、翌年の開港に伴い、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、遊郭も一層の賑わいをみせるようになった。
この碑は、開港という新しい時代の陰に、遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たちがいた事実を残すもので、台石には建立者たちの名が刻まれている。
函館市

MONUMENT OF UMU RYOENTO
This monument called “Umu Ryoento” was erected in 1864 in repose of abandoned women who worked in the “red light” districts. Funds for this monument were donated by those who managed prostitute houses.
In days gone by in a town called Yamanoue-cho (a neighboring area, now named Funami-cho), there was a lively red-light district. After the Hakodate magistrate granted a license and named this area the Yamanoue prostitute quarters in 1868 (Ansei 5), those houses renewed their quarters for the promotion of business.
Moreover, Hakodate port’s opening to foreign trade in 1869, brought visitors from every land and these quarters did a thriving business.
This monument reminds us of the fact that in the shadows of the port opening’s new age there existed women who had no choice but to work and end their lives here as prostitutes. The names of the donators are engraved on the pedestal.
CITY OF HAKODATE

場所

参考


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